江戸薬師考





凄腕の町医者がいる。
仁吉がそんな噂を耳にし、のもとを訪れたのは、師走の中頃のことだった。
いや、噂だけならもう二月も前から聞いていた。
しかし、その医者の素性は謎だとも聞いていたし、自分自身でも薬草についての豊富な知識があった仁吉は、あえてその噂話を無視していたのである。
それでも、今更仁吉が噂の医者のもとを訪れようと思ったのには訳があった。
(江戸患い、か……)
それは、自分が心底慕い、仕える若だんなが、掛りつけの医者である源信から告げられた病名。
江戸患いにかかれば先は長くない、自分の手にはとても負えない。
源信はそう告げ、首を振った。
長崎屋全体に沈んだ空気が漂い、若だんなの母であるおたえなどは倒れてしまう始末。
噂を思い出した仁吉は、藁にも縋る思いで噂の町医者を尋ねてみることにしたのである。
噂の医者がいるという場所に辿り着いた仁吉は、目の前の光景に驚いた。
まだ巳の刻だというのに、そこには長蛇とまではいかなくても、長い列がなされていた。
それほど、人気の医者なのだろうか。
若だんなの一大事だというのに!
苛立たし気に息を吐いて、仁吉は列の最後尾に並ぶ。
気紛らわしに並んでいる面々を見ると、米や野菜、干物を持っている人間が何人かいた。
そういえば、噂の医者は随分良心的だと聞く。
まさか、野菜たちは治療費の代わりだろうか。
そんなことを考えつつ、仁吉は自分の番が来るのを待った。





「次の方、どうぞ」
一刻ほど経って、ようやく仁吉の番が回ってきた。
聞こえてきたのが若い娘の声であることに驚きつつも、手伝いか何かだろうと検討をつけて中に入る。
しかし、中で仁吉を出迎えたのは若い娘ひとりきりで、仁吉は更に驚いた。
「あら、薬種問屋の手代の方じゃないですか」
娘の方は仁吉を知っているらしく、特に気にした様子も見せずに、今日は如何なすったんですか、と言葉を紡いだ。
「あなたが噂の医者ですか?」
「どんな噂か知りませんけど、確かにわたしは医者をやっています」
言ってから娘は一瞬きょとんと首を傾げて、ああ、と頷いた。
「みなさん、あなた同様驚かれますよ」
不快そうな表情を浮かべる訳でもなくそう言うと、娘は再び「それで、今日はどうなすったんですか」と仁吉に尋ねた。
「仕えている主人が、江戸患いにかかりまして」
本人が医者だと言うのならそうなのだろう。
半信半疑ではあるが、今は信じる他ない。
決断した仁吉は早々と内容を告げる。
仁吉としては一刻をも争う一大事だったのだが、娘は「あらまあ」とのんびりした声をあげた。
「DHCのビタミンB1でいいかしら」
「は……? 美多民……?」
「いえ、こちらの話ですからお気になさらず」
ちょっと待っててくださいね。
取り繕うような笑みを浮かべて、娘は奥に引っ込む。
戻ってきた彼女の手には、彼女の手に納まるほどのビードロの瓶があった。
「お仕えしている若だんなの年齢は?」
「十六です」
「この錠剤を一日二回、二粒ほどぬるめの白湯で飲ませてください。それから、主食はしばらく麦飯を食べさせるように」
「……それだけですか!?」
若だんなの一大事だというのに、ただ薬を渡されて、ほんの少し食事の指導をされただけ。
確かにこの薬は見たことがないが、薬のことなら自分の方が何倍も詳しい。
毒々しくさえ見える黄色い錠剤の入った瓶を睨んで、仁吉は形の綺麗な眉を寄せた。
何が凄腕の医者だ、噂などあてにならない。
憤慨した様子の仁吉に、娘は困ったような表情を浮かべて口を開いた。
「とりあえず、一月ほどお試しください。効果が全く無いようでしたら、お代は結構ですから」
よほど自信があるのだろうか、娘がそう言ったことで、仁吉ほんの少し冷静さを取り戻す。
どうせ他に方法があるわけでもないのだ。
試してみるしかないだろう。
もし効き目がなかったらとり殺してやろう、と物騒なことを考えつつ、仁吉は診療所をあとにした。





それからちょうど一月後。
診療所には、金子を持ち、頭を下げる仁吉の姿があった。
「あなたは若だんなの命の恩人です」
いつも医者にかかっていたため、病気の発見は早かった。
どうやら例の若だんなは、一月ですっかり元気になったようだ。
「回復されて、良かったですね」
表面上だけは穏やかに微笑んで、娘は言葉を紡ぐ。
「それで、お代はいくらほどで?」
顔を上げた仁吉が、娘に問う。
その言葉を待ってましたとばかりに、娘は笑みを深めた。
「それでは……十両ほどいただきましょうか」
「十両!?」
十両といえば、最下級武士の三年分の俸給よりも多い。
悲鳴に近い叫びに、娘は笑みを崩す事無く口を開いた。
「ええ、初診料と薬代で十両。命が助かったことを考えれば、安いものでしょう?」
確かに、そうだ。
助からないだろうと言われていた若だんなが十両で助かるのなら、安いと思う。
しかし、
「良心的な医者だと聞いていたのですが」
言外にどこが良心的なんだと聞かれて、娘は心外そうな顔をした。
「お金のないひとから、お代は頂きませんよ。けれど、長崎屋の若だんなが相手となれば、話は別です。長崎屋さんは、随分と儲けておいででしょう?」
ああ、と、仁吉はようやくここで納得した。
彼女が、良心的で凄腕の医者だと言われている訳を。
仁吉は素直に巾着から十両を取り出し、娘に差出した。
念のために、多く持ってきて正解だった。
娘はそれを受け取り、確かに十両、と呟く。
「是非またご利用くださいまし」
「できれば二度とお世話になりたくないですね」
良い金ヅルを見つけた、とばかりに微笑む娘に、仁吉は苦笑いで返した。
毎度この娘に治療を依頼していたのでは大変なことになる。
それでもまた、若だんなが大病を患った際には世話になるのだろうと考えて、仁吉は重い溜息を吐いた。





このときはまだ、互いの名前すら知らなかった。





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20071126