(うわ、寒そう)
 読んでいた本からふと顔を上げてぎょっとする。が今いるのは世界規模で展開するチェーンのコーヒーショップだった。店内は程よく温められていて、窓辺のカウンター席からは外の様子が良く見える。昨日の夜から今朝にかけて関東ではめずらしく大雪が降り、外は一面銀世界だった。これほど雪が積もるのは何十年ぶりかのことらしい。つい先日立春を迎えたけれども、本物の春はまだ遠そうだ。
 そんな寒空の下で、一人の男がぽけっと天を仰いでいた。ただ男が空を見上げていただけだったらも気には留めなかっただろう。だが、男はグレーのズボンに白いシャツを着ただけという雪の中ではあまりに薄着過ぎる装いで、しかも、何故か髪の色が真っ白で、襟足やたら長かった。
(コスプレ……いや、これがヴィジュアル系っていうやつ……?)
 ちなみににヴィジュアル系についての知識はあまりない。
 きょろきょろと興味深そうに辺りを見渡し始めた男をもまたこっそりと眺める。遠目でもはっきりと分かるほど、男の顔立ちは整って見えた。髪も着ている服もなにもかも白い男は今の街の景色にとても馴染んでいるように見えて、それでいてとても不自然である。その存在の不自然さにたまに怪訝そうな顔を向ける通行人はいるものの、誰もが彼に構うことなく道を通り過ぎていっていた。
 隣人には興味を向けず、危険なものには近寄らない。ここはそんな人間たちが集う街だ。
「…………」
 は無言で自分が読んでいた本に視線を落とした。カバーの掛かっていないその本の表紙には『あらかじめ裏切られた革命』と題が書かれている。は基本的に買った本にはカバーを掛けて読む派の人間であったが、その本は今日図書館から借りてきたばかりのものだった。既に絶版になっている本であり、インターネットで探しても価格が高騰しているため入手が困難になっている本である。この本のことを知ったきっかけを思い返して、は再び視線を窓の外に向けた。そしてもう一度本に視線を戻し、そそくさと鞄にしまう。まだ読み終えていなかったが、なんとなくそうしなくてはいけない気がした。
 すっかり冷えてしまったコーヒーに手を伸ばし、口に含んで眉を顰める。……寒い。
 飲みかけのコーヒーをそのままに、鞄を掴んでは席を立った。温かいココアでも頼み直そう。まだ、この店から出る気にはならない。



君子危うきに近寄らず




 がココアを受け取って元の席に戻ってきても、白の男は相変わらずその場所に立っていた。一通り辺りの様子を確認してからようやく寒さに気付いたのか、首をすくめて自らの身体を抱きしめるように体を縮めている。いつからそこに立っていたのだろうか。今更になって寒がっている男の様子から考ると、が男を見付けたのは、男があの場所に立ち始めてすぐのときだったのかもしれない。……しかし、家を出るときに外の寒さに気付かなかったのだろうか。どこかの店に忘れてきた? いや、それだって店を出るときに気付くだろう。
(……あ、同棲中の彼女と喧嘩して部屋を追い出されたとか)
 ココアを頼む直前に一瞬だけ考えてしまった、非現実的な妄想ともいうべき思考を頭から追い出したくて、はさもありそうな理由を考えてみる。そうだ、こんなのは妄想だ。こんなありえないことを考えてしまうなんて、もしかすると本の読み過ぎなのかもしれない。思いながらも男と積極的に関わる気分にはならず、ココアを啜りながら外の景色を眺め続ける。
 男は再びぐるりと辺りを見渡し始めた。どうやら避難できそうな場所を探し始めたようだ。男がの居るコーヒーショップに目を留めたか留めなかったかという瞬間、一人の女がちらりと男に目を向けて、それからはっとしたように立ち止まった。立ち止まった彼女に男も気付いたようだった。彼女は男をじっと見つめた後、きょろきょろと辺りを見渡し、それから恐る恐るといった様子で白い男に近付いていく。
(やめておけばいいのに)
 大学生くらいだろうか。よりもほんの少し若いだろう彼女は、寒さゆえかそれとも興奮からか僅かに顔を赤くして男に話し掛ける。話し掛けられた白の男は、話し掛けられることは予想していただろうに、目を見開き、それから一瞬だけ目を細めて話し掛けてきた彼女を見た。男の瞳が剣呑に金色に輝いたことに彼女は気付いただろうか。いくつか言葉を交わした後、彼女は辺りを見渡し、の居るコーヒーショップの向かい側にある飲食店を指差した。学生の財布に優しい、全国チェーンのファミレスだ。申し訳なさそうに喋っている彼女に対し、男は笑顔を見せて頷く。当然ここから声は聞こえないが、どんなことを話しているのかは予想がついた。
 彼らがその店に一緒に入っていくのを見届けて、は紙コップに入ったココアを手に席を立つ。早く家に帰ろう。



『○○県□□市にある私立中学校の第48期の卒業生が次々と謎の死を遂げている事件で、また新たな死者が出ました。死亡が確認されたのは山田美華さん。東京都内の専門学校に通う女性で、刃物のようなもので首を切られて死んでいたそうです。近くには凶器と思われる剃刀が落ちており、警察は自殺の可能性もあるとして慎重に捜査を進めています……』

「…………」
 白い男のことも記憶から消えかけた、5月某日。
 シャコシャコと歯を磨きながら、はニュースの映るテレビ画面を見付つめる。ここ数か月、どのニュースもワイドショーもこの事件の話ででもちきりだった。
“□□市私立中学48期生連続殺人事件”と名付けられた一連の事件は、その名の通り、□□市にある私立中学校の卒業生、しかも第48期の卒業生が次々と殺害されている事件で、被害者はみな便器に顔を突っ込んでいたり、全裸で縄で縛られて路上で死んでいたりと変わった死に方をしている事件である。2月の末頃から変わった死に方をしている同じ年頃の者たちが現れ初め、関連を調べたところ皆同じ中学校だったという話だ。ニュースによれば、山田美華という女性は中学の頃いじめにあっていたという証言が元同級生からもたらされており、警察では任意で事情聴取も行っていたそうだ。まあ、彼女に限らずとも、同中学校出身の48期生は事情聴取を受けていたようだが。
 テレビではキャスターが延々とニュースを読み上げており、その間その中学校の校舎と思われる映像がぼかして写し出されている。歯を磨いたままぼんやりとテレビ画面を眺めていたは、映像が被害者の女性の写真に切り替わった瞬間、歯ブラシを取り落した。
「!」
 半開きになった口からぼたぼたっと歯磨き粉が零れる。はぎょっと目を開き、テレビ画面を食い入るように見つめた。
(この子……!)
 青い背景にスーツを着て無表情にこちらを見ているその写真は、その服装や顔立ちから考えて比較的最近撮られたものだろう。にはその顔に見覚えがあった。
(あの白い男に話し掛けてた子だ!)
 消えかけてた記憶が一気に蘇る。あの日から暫く、はニュースを気に掛けていた。の心配とは裏腹に写真の彼女が事件に巻き込まれたというようなニュースは聞かなくて、そのうちに今回の事件が始まったものだからすっかりそちらに気を取られていた。
 そうだ、本当にあの日見た光景に疑問を持つならば、気に掛けなくていけないのは“彼”に話し掛けていた女性の安否だけではないのだ。
 すっと背筋が冷えていく。自らの肩を抱いて、はぶるりと震えた。もしも今の想像した最悪の事態が合っていれば、これ以上48期生の被害者が出ることはないだろう。
 は仕事にいく準備が済ませてある鞄から携帯電話をとった。とてもじゃないが、今日は仕事に行く気にならない。
 口をすすいでベッドに潜り込み布団を頭まで被る。ぎゅっと目を瞑っても嫌な想像は頭から消えてくれない。あと何人か、いや、一人でもいいから被害者が出てくれれば忘れられると不謹慎なことを考える。
 だが、この一連の事件でそれ以上被害者が出ることはなかった。世間では最後に自殺したとされる山田美華を犯人と考えているようだったが、真相は闇の中。死人に口なし。事件は迷宮入りし、被害者が出なくなったことからそのうちテレビや新聞でも取り上げられなくなり、そのうちにこの事件は世間から徐々に忘れられていった。
 の心の中にだけ、言い知れぬ恐怖を残して。



 9月になって、は心の落ち着きを取り戻しつつあった。またおかしな事件が起きるのではないかと日々怯えながらニュースを見ているだったが、あの事件以降、おかしなニュースは聞かない。たまたま見覚えのある女性が事件に巻き込まれたというだけで、もしかするとあの日考えたことはの杞憂だったのかもしれない。そんなこと考えていた矢先のことだった。
「今日はみんなに新しい仲間を紹介する」
 いつも通りに出社して、いつも通りに朝礼に出て。だが、いつもとは違い、今日はおはようございますの挨拶の後、部長がそう切り出した。無論、突然のことではなく、1カ月ほど前からみなその話は聞いていた。殊、に至ってはそのしばらくの間その新人の面倒を見ることになっている。新卒ではないので何から何まで世話を焼かないといけないわけではなく、大まかな仕事の流れや決まり事、人間関係について指導を入れれば良いそうだ。なんでもイギリスの大学を卒業しているそうで、英語は勿論フランス語やドイツ語など、多種の言語を使いこなすハイスペックな新人らしい。噂によれば見た目も良いとか。
 部長のやや斜め後ろに控えている新人らしき男は身長が高いようだったが、部長もまた身長が高かったため、の位置からだとちょうど顔が見えなくなってしまっていた。しかし、既に新人の顔が見える位置にいる若い女性社員たちがそわそわと落ち着きなく新人の居る方を見ていることから考えて、噂は本当だと考えていいだろう。も年頃の女性であり、また、B専やデブ専といった特殊な性癖を持ち合わせているわけでもなかったので、イケメンだという新人には素直に興味があった。まして、新人のことはしばらくの間が指導するのである。興味を持たずにいられるかという話だ。
(さてさて、どれほどのイケメンが現れますやら)
 部長の後ろに控えていた青年が、部長に促されて一歩進み出る。冷静そうな仮面を貼り付けながらも内心わくわくと視線をそちらに向けたは、しかし、青年の顔を見た次の瞬間凍りついた。
(……!?)
 思わず声をあげてしまわなかった自分を褒めたい。
 その男に、は見覚えがあった。すらりと高い身長に、甘やかな、それでいて鋭く怜悧そうな美しい顔立ち。以前見たときとは違い、髪は黒く染められ、襟足も会社員らしく短く切りそろえられている。けれど、確信があった。目の前にいる男は、間違いなくあの雪の日に見かけた白い男だった。見間違えるはずがない。だって、48期生連続殺人事件が収束して以来、はあの日見た光景を何度も何度も思い返しては恐怖に震えていたのだ。こんなにも恐ろしい美貌を持った男がそうそういてたまるものか。
 の優秀な表情筋は相変わらず初めに浮かべた冷静な表情を保ったままだったが、血の気は顔から引いていく。もしもメイクをしていなければ、の真っ青な顔色は容赦なくこの場で曝け出されていたことだろう。
「桧山唯斗(ひやまゆいと)です。日本にはしばらくぶりに戻ってきたので勝手が分からずご迷惑を掛けることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
(ひや、ま……?)
 桧山唯斗。男は確かにそう名乗った。しかし、の予想が正しければ、それは男の本名ではない。その名前は、一体誰のものだったのか。……“本物”は、一体どこに消えたのか。
「しばらくはさんに教育を頼んであるから。分からないことがあったら彼女に聞くといい。……さん、こっちに」
「……はい」
 部長に名前を呼ばれ、は前に進み出る。なんとか返事をすることができた。桧山と名乗る男に動揺を悟られてはいけない。気付かれてはいけない。彼の特別な注意を引くようなあってはならない。は自分に言い聞かせた。知らないふりをしよう。気付かないふりをしよう。ただの同僚で居続ける限りは、そう容易く命を落とすような結末にはならないはずだ。……たぶん。きっと。
「桧山君をよろしく頼むね」
「……はい」
 ぽん、との肩を叩き、笑顔を見せる部長。は動揺を押し隠し、微笑んだ。そしてそのまま“桧山”の方を向く。
です。しばらくの間桧山さんにつくことになるので、分からないことがあればいつでも聞いてください」
「はい。よろしくお願いします」
 英国帰りという設定だからだろうか、当たり前のように右手を差し出す桧山。その手を無視するわけにもいかず、もまた右手を差し出して握手を交わす。仲良くなることも恐ろしいが、嫌われることも恐ろしい。触れた手のひらは思いの外温かかった。不自然にならないために僅かに視線を交わせば、彼の黒い瞳が柔らかく細められる。黒い瞳の奥で、金色の光がきらりと輝いた気がした。




2014.10.14