その日、渋谷サイキックリサーチの事務所にはひとりの訪問者があった。
「林興徐さんいらっしゃいますか」
子ども……? 麻衣は首を傾げた。女の子で、小学五・六年生くらいだろうか。麻衣よりやや小さめの身長に、小さな顔、胸元辺りまでの緩く波打つやわらかそうな黒髪。ぱっちりとした利発そうな瞳は長い睫毛に縁取られて、白い頬にはシミひとつない。桜色の唇が開けば白い八重歯がちらりと覗いてかわいらしい。完璧な美少女だった。
「林興徐って……リンさん? ……リンさんにどういったご用件で……?」
こんな美少女がリンさんになんの用だろう? 純粋な疑問と野次馬精神でやや不躾な視線を送る麻衣に、それでも少女は嫌な顔をせずに答える。
「しばらく顔を見ていない許婚が心配で会いに来たんです」
「え?」
何を言われたのか理解できず、麻衣は固まった。少女はにっこりと微笑む。
「自己紹介が遅くなってごめんなさい。初めまして、わたしは林興徐の婚約者でといいます」
「えええええ!?」
雁金と葉牡丹
とリンは親族同士の決めた許婚である。けれどそこにまったく愛がないのかと問われればそうではない。はリンが大好きであったし、自分に懐くをリンは邪険に扱ったりはしなかった。
家と林家は香港でも有数の資産家である。昔からそれなりに交流があったが、両家は互いに手を組まなくとも十分やっていけるほど安定していたのでこれまで婚姻の話が持ち上がったことはなかった。しかし、家にが生まれたことによってその関係には変化が生じた。それはが霊能者としての才能を持っていたからだ。林家は優秀な巫蠱道の道士を輩出する家系であったが、家は違う。遠い昔の先祖に道士が数人いたらしいが、それはもう誰の記憶にも残っていないほど過去の話だった。家では必要とされない霊能者としての才能。単に必要がなかったというだけで、は冷遇されたというわけでもなく家族から十分愛されて育ったが、家が彼女のその才能を持て余したことは事実だった。そんなときに家に救いの手を差し伸べたのが林家である。他人のこととはいえ制御できない能力というのは危険であったし、能力を持つ者というは希少であった。そこに彼女を取り込もうという打算があったことは否定できないが、まさかとリンが婚約することになろうとは最初は誰も思っていなかった。
が初めてリンに対面したのは三歳のときだった。実は赤ん坊の頃に何度か同じ場に居合わせてはいるのだが言葉を交わしたことはなかったのでカウントしない。に三歳頃の記憶はほとんどないのだが、リン初めて会った日のことはよく覚えている。その頃林家はイギリスに移り住んでいた。の両親は忙しい人だったので、は世話役の女性と二人のボディーガードだけを連れてイギリスに渡らなければならず、酷く不安だった。そんな不安定な気持ちでリンに対面したは、その大きな身長と今まで出会ったことがないほどの大きい力を前にしてぎゃーぎゃー泣き出してしまったのだ。それはが霊能者としての才能を持っていたがゆえの本能的な恐怖だった。そのとき十九歳であった興徐青年は、の感受性の強さに感心すると同時に大変困ったという。なにせ自分と対面した瞬間小さな女の子が泣き出したのだ。いくらリンが師の立場になるとはいえ、三歳の女の子を叱りつけるには気が引ける。の世話役はそのとき傍にいたが手は貸してはくれなかった。結局リンは自らあの手この手を使ってを泣き止ませなければなかった。あれも道士としての修業だというのなら、あれほど大変な修行はなかった、と後にリンは語る。が泣き止んだのはリンが己の式を出したときだった。飛び回る式をきゃっきゃと楽しそうに追いかけるをみて心底ほっとした。たとえ式が本来ベビーシッターをするための存在ではなかったとしても。
以来、はリンに懐き、己の能力を制御する方法をぐんぐんと吸収していった。問題が発覚したのはが五歳のときである。いつもリンの周りを付いて回っていた彼女は、なんとリンの使っていた術のいくつかをいつの間にか見て覚え、どこから捕まえてきたのやら式まで従えていたのだ。林家に伝わる術は門外不出……とまでは言わないが、赤の他人にその術を会得されるのには多少問題があった。そこで出てきたのがとリンの結婚話である。林家以外に伝わるのが問題ならを林家の人間にしてしまえばいい。それが林家の出した結論だった。幸いというべきか、当時リンに想い人はおらず、また本人自身恋人を作る予定がなかった。そして正直この結婚話が持ち上がった時点では、との年齢差もあるしなんだかんだいって御破算だろうと高を括り特に異論を唱えなかったのだ。だが、はいつの間にかリンに懐き「わたし大きくなったら興徐お兄ちゃんのお嫁さんになるー!」などとほえほえ笑っていたし、の両親も「娘が興徐君を気に入っているならまぁいいか。家の格も合うし」などと呑気なことを言ったので、結局最後まで反論者が現れなかったのである。かくしてとリンの婚約は結ばれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
麻衣がオレンジジュースを出すとは嬉しそうに笑った。左手でグラスを持って、右手の指先でストローを掴んで少女はそれをこくこくと飲む。ジュースを飲んでるだけでかわいらしいなんて世の中不平等にできてるなぁと麻衣は内心溜息を吐いた。
「ちゃん、日本語上手だねぇ」
はリンと同じ中国人らしい。日本人嫌いのリンの許婚だというのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、あまり上手に日本語を話すのでそうだと言われなかったら分からなかった。言われてみれば彼女は今時の若者が使うような言葉ではなく、教科書に載っているようなきれいな日本語を使っている。
「興徐さんが話せる言葉を、わたしも話せるようになりたいと思って勉強したの」
誇らしげに頷く少女を眺めながら麻衣は考えた。この子、本当にリンさんの許婚なんだろーか? だって目の前の少女はどう見たって自分より年下だし、リンはぼーさんよりも年上だ。年齢差、いくつだろう。
と、そのとき、事務所を開けていたナルとリンが帰ってきた。
「あれ、?」
最初に事務所内に入り込んだナルがその存在に気付いて彼女の名前を口にする。はナルとも知り合いらしい。
「お邪魔してます、ナルさん」
は立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「?」
ナルの口から出てきた名前に驚き、リンも慌てて事務所の中に入った。そのリンの姿を見付けたの顔がぱっと輝く。
その先はどうやら中国語らしく、麻衣に会話の中身は分からなかった。
「興徐さん!」
はたたたっとリンに駆け寄ると、両手を伸ばしてリンの片手をぎゅっと握りしめた。そしてそのままリンの手を引っ張り、部屋の中へ中へと彼を誘い込む。に手を引っ張られるがまま、リンは困惑の声を上げた。
「どうしてここに……」
「どーしてもこーしてもないわよぅ……! だって興徐さんってば日本に行ったきり全然会いに来てくれないじゃない」
掴んでいた手を離して、はぷくぅっと頬を膨らませる。
「ちゃんと手紙を書いているでしょう?」
「だって顔が見たかったんだもの……!」
は半ば睨みつけるようにリンの顔をじっと見上げた。暫し見つめ合うふたり。やれやれ、と首を振りながら折れたのはリンだった。
「仕方のない子ですねぇ」
そう言ってリンは膝を折るとと目線を合わせて甘く苦笑し、の脇に手を差し込んで小さな体をひょいっと抱き上げた。はバランスをとるために小さな手を伸ばしてリンの首にぎゅっと抱きつく。そんな彼女の背中をよしよしと撫でるリンの表情は酷く穏やかで、普段彼のそんな表情などお目に掛かったことのなかった麻衣は濃厚なラブシーンを見たわけでもないのに赤面してしまった。ふたりがなにを話しているのかも分からないというのに。
「、日本まで一人で来たんですか?」
「鈴玉と一緒よ」
リンに構ってもらえた嬉しさでは笑う。
鈴玉とはリンも知っている家の使用人の女性のことだ。が生まれる前から家で使用人をしており、が生まれてからはベビーシッターのような役割を担っていたため、はたいそう鈴玉に懐いていた。ちなみに年齢は四十代半ばのはずだが、見た目はどう見ても三十代前半にしか見えない魔女のような人だ。結婚はしているが子どもはいない。
「それで? その鈴玉は?」
「ホテルに置いてきた」
「……」
首に巻きつくを右手で支えていたリンは、空いていた左手でその額を覆った。
「ちゃんと興徐さんのところに行くって言ったもの。式だってついてるし」
呆れたようなリンに、むっとしながらは言う。どうやら鈴玉の許可も下りているらしい。リンは溜息を吐いた。
「まぁ、来てしまったものは仕方ありません。帰りは送っていってあげますから、暫くここで待っていなさい」
「はーい」
頷いたを、リンはソファの上に下した。リンはソファの前で片膝をついての頭をなでる。
「良い子にしていられますね?」
「ん」
リンの口から直接事実を確認することはできなかったが、先程の光景を見る限りがリンの婚約者というのは本当のようだ。リンに言われた通り大人しくソファに座りながら持参したらしい本を読んでいるを麻衣は眺める。
「ちゃん」
「はい」
淹れたばかりのコーヒーをお盆に乗せて名前を呼ぶと、彼女は本から顔を上げた。
「リンさんにコーヒー持って行ってもらってもいいかな?」
「! 麻衣ちゃん!」
表情を輝かせたを見て麻衣はニシシと笑う。
「ね? お願いしてもいい?」
「もちろん! ありがとう!」
は急いで本を閉じるとソファから立ち上がった。ぱたぱたと麻衣に駆け寄りコーヒーを受け取るに「熱いから気を付けてね」と言えば「はぁい」と頷く。そろりそろりとコーヒーが零れないように慎重に歩くの背中を見送って、麻衣はくすくすと笑った。
「うふふっ、かわいー」
あれじゃあリンさんがメロメロでも無理ないなぁ。
コンコンコン、とノックを三回。どうぞ、という声にはその扉を開ける。
「こーうじょさんっ!」
「?」
てっきり麻衣だとばかり思っていたリンは、予想外の人物が部屋を訪ねてきたことに驚いた。
「あっ、違うの、邪魔しにきたんじゃないのよ? 珈琲をね?」
不審そうに歪められたリンの眉に、先程良い子にして待ってなさいと言われたことを思い出したは慌てて弁解する。
がお盆に乗せているコーヒーを見て、フッとリンが笑った。
「谷山さんですね?」
麻衣がとリンに気を使って、いつもなら麻衣が届けるはずのコーヒーをに持たせてくれたのだ。えへへ、と笑ってはぺろりと舌を出す。
リンはからコーヒーを受け取ると、それを机の空いているスペースに置いた。
「興徐さん興徐さん。今日は一緒にお夕飯食べてくれるでしょ?」
それを見届けると、お盆を胸に抱えたがきらきらとした表情でリンを見つめた。その微笑ましさにリンの口元も自然と綻ぶ。
「そうですね。久しぶりですし、そうしましょうか」
「本当? 嬉しい!」
満面の笑みを浮かべたの頭を無意識に撫でて、リンは口を開いた。
「ただし、ナルも一緒ですよ」
「……構わないわ。わたしだって鈴玉が一緒だもの」
一瞬むっとしたけれど、はそれを飲み込んだ。はナルが嫌いと言うわけではない。しかし、大好きなリンがいつもナルにとられてしまうので彼のことを少々妬ましく思っているのは事実だった。なぁによ、いっつもいっつもナルって! けれど、はリンに嫌われたくないのでいつも聞き分けの良い子のふりをする。
「それでは、早めに仕事を終わらせてしまいますから向こうで待っててくださいね」
「はぁーい」
るんるんと足取り軽くリンの部屋を出て行こうとしていたは、途中ではたと立ち止まった。
「あっ、興徐さん」
「うん?」
くるりと振り返ってリンの傍に戻ってくる。彼女はリンのネクタイの先をくいくいっと軽く引っ張った。屈めということらしい。
リンが大人しく膝を曲げてと身長を合わせると、彼女はそのちいさな両手のひらをリンの両肩に乗せた。そして。
――ちゅっ
リンの頬に落ちた柔らかい感触。目の前にはの屈託のない笑み。
「お仕事頑張ってね!」
それは父親を慕う娘のような姿に見えて。けれどもそうではないことをリンはきちんと理解していた。
「」
そそくさと退室しようとしていたを今度はリンが引き留める。
「なぁに」
振り返ったに、リンは首を傾げてみせた。
「私からのはいらないんですか?」
「えっ! してくれるの!?」
目を丸くしているにリンは身を低くしたままおいでおいでと手を振る。駆け寄ってきたを一度ぎゅっと抱きしめてやって、それから彼女の額に唇を落とした。きゃー、と頬を赤く染めながらも嬉しそうにはにかむ少女。
リンは小さな子どもに欲望を抱く性癖はない。けれど、日々成長していくの生命はきらきらと輝いていて、見ているのが楽しかった。
幸せそうに笑うを見ながら、できればこの先もずっと彼女の傍で彼女の成長を見守ることができればいいとリンは思った。