存在証明書





「錬金術じゃないって……どういうことですか?」
たった今言われた通りの錬成陣で為してみせた水の錬成に、いったいなんの問題があるというのか。
考えて、考えて。
それでも結局分からなくて、わたしの口から出てきたのはそんな言葉だった。
そもそも、錬金術という概念をようやく理解したばかりのわたしがいきなり彼の言っていることを理解しようなんて無理がある。
分からなくても仕方がない。
だからわたしは素直に尋ねることにした。
だが、そんなわたしとは対照的に、錬金術に関して多くの知識を持つはずのマスタングさんは口を開くのを躊躇っているようだった。
自分で話を切り出しておきながら何度も何度も躊躇う様子を見せて、ようやく決心したように彼は口を開いた。
に渡した錬成陣だが……実の所、あれはまったくのデタラメなんだ」
「えっ……」
予想外の答えに、わたしは困惑に短い声をあげる。
告げるマスタングさんの表情は硬かった。
「でも、水はきちんと錬成されましたよ?」
「その通り。だからこそ、問題なんだ」
「?」
当然の疑問を口にすれば、マスタングさんは難しい表情のまま答えた。
彼の言っていることが、よくわからない。
わたしは眉を寄せる。
そんなわたしを見て、マスタングさんは僅かに苦笑を浮かべた。
が最初に描いた錬成陣があっただろう? そもそもあれからして、水など到底錬成できるはずもない構築式だったんだ」
「でも、」
咄嗟に先程と同じ台詞を言い掛けたところで、わたしははっと言葉を止めた。
この世界に来てから読んだ錬金術についての本の内容を、ふと思い出したからだ。
錬成陣とは、化学式を表したものなのだという。
錬金術の勉強を始めたばかりのわたしには錬成陣から元の式を読み解くなどという高度な真似はできない。
だが、そんなわたしとて大学受験を目前にした高校生。
どの元素が水を構成するのかくらいは知っている。
H2O、水素がふたつに酸素がひとつ。
不思議なことだと考えるべきか、それとも当然だと考えるべきなのかは分からないけれど、幸いにしてわたしがいた世界とこの世界の元素に対する概念は等しい。
つまり、この世界においても水を構成するのは水素がふたつに酸素がひとつ。
それはどんな環境だろうと変わらない。
たとえば家の庭であっても、リビングであっても、水を作るのに必要なものは同じ。
ならば、どんな場所で錬成を行うにしても、その構築式……水を錬成するための錬成陣は変わらないはずだ。
そうだというのに、わたしは異なるふたつの錬成陣から勢いは違えど同じように水を錬成してしまった。
たとえどちらか一方が実は正しい水の錬成陣だったとしても、もう一方についてはどう説明するのか。
ぱっと見ではあるが、先程わたしが庭で描いた錬成陣とマスタングさんがわたしに手渡した錬成陣とには似通った箇所すらなかったように思う。
仮に環境に合わせて錬成陣に変化を加えなくてはいけなかったのだとしても、まったく共通点がないというのはおかしい。
わたしは椅子に座っているにも関わらず、ぐらりと足元が揺れるような感覚を覚えた。
わたしはいったい、なにをしたの?
?」
突然黙り込んでしまったわたしの名前を、マスタングさんが訝しげに呼んだ。
はっとして顔を上げる。
「マスタングさん、わたし……」
言い掛けたものの、言葉が出てこない。
自分ですらよく分からないことを、どう説明すればいいのか。
愕然とマスタングさんを見上げたわたしに、けれども彼は心得ているというように穏やかに言葉を紡いだ。
「これは私の推測でしかないのだが……、おそらく君はそうと思い込んだだけで水を生み出してしまったんではないだろうか」
「え?」
どういう意味?
「なんと言えば分かりやすいだろうか……そうだな、この水は、君の想像力が作り出したのではないかと私は考えているんだ」
マスタングさんはどうにか分かりやすくわたしに説明しようとしてくれたのだろうけど、やはりなにを言われているのか分からなくて、わたしはマスタングさんの台詞を必死に噛み砕こうとした。
だがすぐに、それが意味のないことだと気付く。
だって、マスタングさん言ったことはたぶんそのまま言葉通りの意味なのだ。
あの水は、わたしの想像力が生み出したもの。
理解した瞬間、わたしは声をあげていた。
「え、えええ!?」
一度その意味を受け入れたくせに、やはりそんなのあり得ないと理性が否定する。
あまりに非現実的過ぎる。
錬金術でさえ、わたしにとっては非現実的だというのに。
ん? でも、錬金術のような非現実的なものが存在しているのだから、魔術のようなものも意外と日常的だったりするんだろうか。
「あの……それって、結構日常的にあり得ることなんでしょうか?」
おそるおそる尋ねれば、マスタングさんは一瞬考えた様子で動きを止めたが、すぐになにかを諦めるように首を横に振った。
「いや……私が知るかぎりではそういった例は存在しない」
もしそんな人物がいたとしたら、今頃有名人だ。
それこそ魔法の範疇だろうな、とマスタングさんは呟いた。
あ、やっぱり世の中そんなに上手くできていないですよね。
わたしはわたしで心の中で呟く。
だとしたら本当に何なのだろう。
段々考えるのが面倒になってきた私に、マスタングさんは言った。
、試しにこのグラスに水がたっぷりと入っているところを想像してみてくれないか」
「…………」
わたしはマスタングさんをじっと見つめた。
思うところは、なかったわけではない。
それでも、このときのわたしには彼の言葉に従う以外の選択肢はなかったように思う。
わたしはマスタングさんの目の前に置かれているグラスにちらりと見やり、そっと目を閉じた。
頭の中でそのグラスに水が満たされている様子を想像してから、わたしは再びそっと目を開ける。
わたしがそれを確認するよりも早く、マスタングさんが息を飲むのが分かった。
わたしの視界には、当然だと主張せんとばかりに水で満たされたグラスと、難しい表情のマスタングさん。
「ふむ。……やはり、か」
硬い表情を僅かに緩めてこちらを見やったマスタングさんはどこか諦めた様子でそう言った。
それに居心地の悪くなったわたしもまた小さく息を吐いて、目の前のグラスを眺める。
ふたりの間に、沈黙が降りようとしていた。
それが恐ろしくて、わたしは反射的に口を開く。
「……わたしの使っているこの能力は、いったいなんだっていうんでしょう?」
少なくとも、このような状況下で平然としていられるほどわたしの心は強くなかった。
「さあ、私にも分からんな……それこそ君の消えた記憶の中に眠る真実なんだろう」
尋ねたわたしに対し、マスタングさんはどこかほの暗い雰囲気を漂わせてそう答えた。
それはつまり、マスタングさんが理解できる域すらも超えていたということなのだろうか。
彼の表情からは何も読み取ることができない。
なんとなく、聞かなければよかったと、そう思った。
……消えた記憶、か。
そんなこと、ありえない。
心の中でこっそりと否定する。
だってわたしは、自分が自分であったことのほんのひとかけらだって失っていないのに。
ぼんやりしていると、いつの間にかマスタングさんの両手が、わたしの両肩に乗せられていた。
「いいかい、
彼は僅かに腰を折り、わたしと視線を合わせる。
「この能力のことは他の誰にも言ってはいけないよ」
そう諭す彼の声は、いつも以上に真剣なものだった。
「君の能力は、本来錬金術に適応されるべき等価交換の法則を明らかに無視している……私がなにを言っているか分かるかい?」
言われている内容自体はなんとなく理解できる。
わたしの能力は、錬金術の理に反しているっていうんでしょ?
しかし、その本質が見えてこない。
元々、わざわざこの能力を言い触らすようなつもりもなかったけれど。
自分自身不思議な能力だとは思うけれど、それがどうかしたの? といった感じだ。
首を傾げたわたしに、マスタングさんはただひたすら真面目くさった表情のまま説明を加えた。
の能力は、無から有を造り出せるんだ。それがどんなにすごいことで、同時に危険なことなのか、今の君にはすぐにはピンとこないかもしれない」
わたしは頷く。
わたしにとっては、“錬金術”と呼ばれるものも、自分のこの能力も、たいした違いがあるようには思えなかった。
わたしからすればどちらも不思議なことで、どちらも魔法のようなもの。
いったい、錬金術というものの仕組みを理解する彼の目にわたしの能力はどう映っているというのだろう?
分からないことはたくさんある。
それでも。
……それでも、
「だけど、信じてほしい。私はを守りたいんだ」
そう告げるマスタングさんの眼は、声は。
わたしに彼を信用させるための要素としては、十分過ぎるくらいだった。
このひとを信じていれば自分はきっと大丈夫。
なんの根拠もなくそう思えた。
……だから、マスタングさんにも知っていてほしい。
わたしはきっとマスタングさんが思う以上にマスタングさんを信頼しているんだということを。
言葉なくそっと微笑んだわたしに、マスタングさんもほっとしたように笑った。





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20111019