右の首筋に感じたのは快楽とは程遠い痛み。そこからじわじわと広がる熱に理性が急速に溶かされてゆく。自分が自分でなくなっていくような感覚はにとって恐怖でしかなかった。思考し理性で以って自らを統制する能力を失ったら自分は何者になってしまうのだろう。記憶が途切れるほんの寸前、偶然近くにいたこの教団の司令官に助けを求めるように咄嗟に手を伸ばしたのは理性のある彼女か、理性を失った彼女か。正気と狂気の狭間で揺れる彼女の瞳に最後に映ったのは、驚きと焦りの表情を浮かべた男の顔だった。
最果てへの片道切符
その日、は珍しく髪を結わずに下ろしていた。普段はハーフアップかポニーテールにされ後ろに流されている毛先が今日は首筋から胸元を覆っている。そんな後ろ姿をしばし眺めてから、コムイは意を決して口を開いた。
「ちゃん」
リーバーから借りたノルウェー語の本とにらめっこをしていたがぱっと振り返る。本の内容がよほど難解だったのか、眉間には僅かにシワが寄ったままだった。自分に声を掛けられたせいだとは思いたくない。コムイはが座っていた一人掛け用ソファの斜め後ろ辺りに立つと、ポケットに入れていた小さな水色の包みを取り出し、こちらを向いているにすっと差し出した。
「よかったらこれ、使って」
差し出されるがまま咄嗟に受け取ったは首を傾げた。包みは柔らかい紙の素材でできており、の手のひらにもすっかりと収まってしまうほど小さなものだった。大きさのわりにはずっしりとした重さがある。
「開けても?」
「うん……」
尋ねるにコムイはどこか緊張した面持ちで頷く。はシャワシャワとした素材の包みを丁寧に開いた。
「あ、かわいい」
中身を見た瞬間つい無意識に呟いたに、コムイの顔がぱっと輝く。口をついて出てしまった言葉に本人は内心“しまった”と思ったが、それはなんとか表情に出さずに済んだ。
中から出てきたの小ぶりの花が横に3つ並んだバレッタだった。銀一色のシンプルなものだが花の形がとても丁寧に作られており、品の良いデザインになっている。
「気に入ってくれた? よかったー! ホラ、ちゃん髪飾り失くしたって言ってたでしょ?」
「え、あ、はい」
本当は失くしてないけど。盗聴器代わりの逆パカゴーレムを回収した際に吐いた嘘だ。後で見付かったと伝えるつもりだったが、アクマの教団襲撃事件やゾンビ騒動でドタバタしていたためすっかり忘れていた。
「最初は失くしたのと似たものを贈ろうかとも思ったんだけど、なんかそれは違う気がして」
あれはの故郷のものであるからこそ価値のあるものだから。
「そ、それはお気遣い頂きありがとうございます……」
コムイの配慮より何より、想定外の出来事に珍しくどもる。コムイの性格からしておそらく失くしたリボンを探してくれるだろうとは思っていたが、まさか新しい髪飾りを用意してくるとは。予想外だ。予想外過ぎる。それにこの花、本物よりも大分小ぶりだがアイリスの花ではないだろうか? アイリスの花言葉はたしか……。この期に及んで一体どういうつもりなのだろう。
明らかに自分のためだけに用意された代物を押し返す訳にもいかず、しかし笑顔で礼を言ってこのまま受け取るのもなんだか憚られてが身動きできずにいると、たまたまそこを通り掛かった人物がいた。
「あら? 兄さんそれ完成してたのね」
「「リナリー!?」」
コムイとは二人して飛び上がった。コムイはリナリーが現れたこと自体よりも彼女が放った台詞にギクッとしたし、はリナリーにとって大切な血縁であるコムイとギクシャクしている状況で彼女が現れたことに柄にもなく気まずさを感じていた。そんなことはお構いなしにリナリーはの傍に立ちその手の中を覗き込むとにっこりと笑う。
「ね、。せっかくだからつけてみせてよ」
「え?」
は思わず途方に暮れたようにリナリーを見上げてしまった。
「兄さんも見たいでしょ? が実際に兄さんが作ったバレッタ付けてるところ」
「あ、うん……」
リナリーの勢いに押されてコムイが頷く。これは本格的にまずいと思ったは、でもここには鏡も櫛もありませんし……とやんわり断ろうと口を開き掛けたが、それよりも先にリナリーはの手にあったバレッタをさっと取り上げ、腰元のポーチから櫛を取り出すと有無を言わさぬ笑顔で言った。
「私がつけてあげる」
「あ、ハイ……」
も勢いに押され頷いた。リナリーはすぐ側に立っていたコムイを僅かに押し退けての背後に立つ。鼻歌まで歌いだした。もうこうなればはリナリーにされるがままになるしかなかった。リナリーの細い指がの髪の束を持ち上げ櫛を通す。美容室以外で誰かに髪を結ってもらうなんて何年ぶりだろう。なんだかくすぐったい気分だ。教団本部は建物も人もあちこちがボロボロだというのに、今この瞬間この場所の空気はあまりに普通の日常のようでは少し笑ってしまいそうになった。
「はい、できた!」
が頭にバレッタを留められたのを感じたのと同時にリナリーが満足そうに頷く。ポニーテールにされたのは感覚で分かったが、鏡を持ち合わせていないため自分ではどのようになっているのか分からない。兄か妹のうちのどちらかがすぐに感想を述べそうなものだったが二人の間にふいに沈黙が降りたことに気付いては振り返った。
「…………」
「…………」
二人が凝視していたのはの首筋。
「……あ」
その原因に思い当たってはぺちりと手のひらでその部分を覆い隠す。そこにあったのっはうっすらと赤い歯型。固まったまま立ち尽くすコムイの横で、リナリーはいち早く立ち直った。
「ここ……」
ちょんちょん、と自分の首筋を指先で叩くジェスチャーをするリナリー。疾しいことなど一切なかったが、なんとなくバツが悪くては視線を逸らす。
「ゾンビに思いっきり噛まれたみたいで……」
あー……とリナリーが唸った。納得いったのだろう。ゾンビ事件が解決したのはつい昨日のことだ。最弱エクソシストのうちのひとりであり、早々に餌食となったにとってはまったく思い出したくない出来事でもある。リナリーは少し困ったように笑った。
「えっと、絆創膏とか貼った方がいいんじゃない?」
「うーん……わたしもそう思ったんですけど……リナリー、これ貼ってもらってもいいですか?」
はポケットに入れていた絆創膏をリナリーに渡す。リナリーは首を傾げながらもそれを受け取り、言われるがままの首筋に貼り付けた。そして。
「……ごめんなさい、。やっぱり外しておきましょう」
どう思います? とが問い掛けるよりも先にリナリーが言った。真顔だった。
「はい……」
力無く返事をするの首筋から貼ったばかりの絆創膏がぺりぺりと剥がされる。そして結っていた髪も素早く解かれ下ろされ、の手の中には銀のバレッタが戻ってきた。露わになっている首筋に絆創膏が貼られている姿というのはかえって妙な想像を駆り立てるとリナリーも気付いたようだった。なんだかいたたまれない気持ちである。
「えーと、用事を思い出したのでこの辺で失礼しますね……」
は先程まで読んでいた本とバレッタを手にそそくさと退散することにした。
の去った部屋で、の首筋にあった歯型を見て以降すっかり黙り込んでしまっていたコムイにリナリーがぽつりと一言。
「兄さんの意気地無し」
「…………」
コムイは反論しない。反論できるはずもない。一体かわいい妹は自分の何を批判したのか。なんのこと? ととぼけることができる段階は、無自覚でいる間に過ぎていた。リナリーの台詞を聞いて、やはりそうか、と納得すると同時に焦る気持ちが自分の中で膨らむ。今更その気持ちに名前を付けることなど許されるものか。
アレンと再会してからというもの、が周囲の人間に見せる表情はふとした瞬間以前よりも柔らかい。元々人の心を意識的に掴むのは上手な娘であったが、今はそこに無意識に惹きつける柔らかさも加わって、彼女の教団内での立場は確かなものとなっていた。喜ぶべきことであるはずなのに、上手く消化しきれない自分がいる。
彼女に一番最初に手を差し伸べたのは自分だったはずなのに。
あまりに身勝手過ぎる気持ち。自分自身に軽い失望すら覚えて、コムイは深い溜息を吐きながらしゃがみ込む。そんなコムイをリナリーはただ物言いたげに見つめていた。