天才鍵師とバーボン




 鍵師という仕事をご存知だろうか。鍵を失くして困っている人の家の鍵を開けたり、新しく鍵を作る仕事だと言えば分かりやすいかもしれない。アメリカなんかでは技術レベルの高い者はロックスミスと呼ばれ、上級技能者として高い社会的地位が与えられていたりもする。
 鍵師は空き巣予備軍なんじゃないかと思う人もいるようだが、能力があるから犯罪に走るというのなら今頃そこかしこで窃盗や殺人などの犯罪が起きていてもおかしくないはずだし、我々とてプロとしてのプライドがある。そもそも鍵師は地元の公安委員会に届出が必要な職で、犯罪歴のある者はこの職に就けない。結局のところ、犯罪に走るかどうかというのはその者持つ素質や状況が決めるのだ。
 さて、その鍵師が持つ犯罪者としての素質の話はさておき、鍵師としての能力を持つがゆえに望まぬ犯罪に巻き込まれるケースというのはまあそれなりある。
 私で言えば、まさしく今がその瞬間であった。

「選ばせてやろう。素直に依頼を受けこの金庫を解錠するか、あるいはこの男のように床を拭く役にすら立たないない死体になるか。好きな方を選ぶといい」
 そう言って黒い服に全身を包んだ長い銀髪の男は、床に転がる物言わぬスーツ姿の男の頭をよく磨かれた革靴の先で蹴飛ばした。ど直球の脅しである。サルでも理解できるような分かりやすい選択肢をどうもありがとう。私が知りうる限りこれほどまでに簡潔かつ極端な脅しを受けた鍵師というのは他にはいない。私は意識を明後日の方へと飛ばした。
 床に転がる男は私の同僚であり、同じ人間を師と仰いだ兄弟子であった男だった。妹弟子である私の方が優秀であることに嫉妬を隠し切れていない少々面倒な男ではあったが、死んだことを喜べるほど鬱陶しく思っていた訳ではない。
 断ればこれと同じ運命を辿ることになるのか……。
「早く決めろよ。俺はそっちの優男と違って気が長い方じゃないんでな」
 私の背後に立っていたバーテンダーのような格好をした金髪の男を見遣りながら言う銀髪の男。楽しげに、それでいて本物の殺意を込めて急かされて、背中を冷たい汗が伝う。私にも鍵師としてのプライドがある。……しかし、死にたくはない。こんな所で死んでなんかいられない。
 私は一度目を瞑ってから静かに息を吐き、覚悟を決めた。
「……念のため、この金庫がご自身の物であることを確認するサインをいただてもよろしいでしょうか」
 そう言って私は業務用のタブレットを取り出す。死にたくない、しかし犯罪者にもなりたくない。これが私が仕事を引き受けられるギリギリのラインであった。事実がどうであれ、このサインさえもらえれば私はただ騙されただけの鍵師でいられる。この浅はかな考えが銀髪の男のカンに触ることを心配したが、男はくっと笑っただけだった。
「いいだろう。……おいバーボン、受け取ってこっちに持ってこい」
「やれやれ、僕は貴方の小間使いじゃないんですけどね」
 言いながらも手袋を嵌めてこちらに手を差し出してきたバーテン風の男に私はタブレットを渡した。ちなみに金庫の鍵開けの依頼があった時点で銀髪の男の身分証明書の確認も行なっており、事務所にデータがある。今から思えば本物かどうかは怪しいが。
 銀髪の男はタッチペンでタブレットにサラサラとサインをすると、再びバーテン風の男を通して私にタブレットを返してきた。
 タブレットを受け取る私を眺めながら銀髪の男は笑う。
「賢明なミス・ロックスミスに一つ良いことを教えてやろう」
 ここで含みを持たせるように銀髪の男が間を置いたので、私は男の顔を見つめた。そんな私を確認して、男は床に転がる遺体の顔を踏みつける。見ていて気分の良いものではなかった。思わず眉を寄せた私に、男は忠告とも取れる台詞を口にした。
「ここに転がるこの男もな、命惜しさに解錠に取り組みはしたんだよ。一時間経っても金庫一つ開けられない無能だったので殺したがな」
……なるほど、どうやら私は一時間以内に解錠してみせる必要があるらしい。



 それから男たちに連れてこられたのは鍵穴の無いタイプのダイアル式金庫の前だった。これなら特別な道具は必要ない。必要なのは己の感覚とダイヤルを弄る手だけだ。ダイヤルの目盛りはゼロから百。兄弟子である男が一時間以上もの時間を要したとなると、少なくともディスクは三枚以上であるのだろう。
 ディスクとは、ダイヤル式金庫の鍵の内部にある薄い円盤状の構造のことだ。ディスクにはそれぞれ切り欠きが入っており、ダイヤルの回転方向と回転数と番号を一致させるとこの切り欠きの部分が一直線上に並ぶ。その状態で取っ手のハンドルを操作すると閂となっていたものがその切り欠きの中へ押し込まれ、扉が開くという仕組みだ。当然ディスクの枚数が増えれば増えるほど解錠は難しく、四枚座ともなると数値の組み合わせは百万通りもあり、百万変換ダイアルとも呼ばれる。
 近頃はオートダイヤラーという機械で全てのダイヤル目盛りの組み合わせを試し解錠するのが主流だが、これは機械を使うとはいえ百万通り全てを総当たりで試すことになるので場合によっては数時間から半日以上掛かってしまい、今回のように制限時間がある場合には良策とはいえない。
 私はまず初めに取っ手を握り、施錠されているかどうかを確認した。それから商標名を確認し、知っている米国製のものであったので仮番号での解錠を試す。仮番号は金庫の出荷時に設定されている初期の番号だ。これを変更しない人というのが意外に多いのだが、あいにく今回はハズレだった。まぁ兄弟子も当然これくらいは初めに試したに違いないし、そこで解錠に成功していたら私は今ここにはいなかっただろう。
 私は全てのディスクをゼロに揃えると、金庫に頬と耳を押し付けた。掛けていた眼鏡のテンプルが金庫に当たりカチャリと音を立てるが、今回は外さずに作業を開始する。
 この製品ならば予想通りディスクは三枚の四枚座。米国製のダイヤル式金庫は三枚のディスクの最奥部にドライブカムと呼ばれる部分があり、スピンドルと呼ばれる軸でこの四枚が繋がっている。ディスクは厳密にいえばどれも同じ大きさではなく、完璧な円ではないため接触が不完全であり、どれかのディスクが正しい位置に来るとダイヤルを回したときの感覚がほんの少しだけ違う。上等な金庫であればその違いはごくごくごく僅か、微妙過ぎて普通の人間には千年掛かっても感知できないような差だが、そこをなんとかしてしまえるのが私が日本の鍵師協会からマスター鍵師の称号を最年少で与えられている所以である。
 私はダイヤルをまずは三つずつ進め、大まかな数字を探った。……一つ目は13から15の間、二つ目は28から30の間、三つ目は73から75の間だ。それから今度はこの間のダイヤルを一つずつ進めて正確な数字を決定する。よし、14、29、75だ。この数字がそれぞれどのディスクの暗証番号かまでは分からないので、あとは総当たりだ。3の階乗なので全部で六通り。退屈な作業だが、百万通り試すよりは随分とマシだろう。今回の正解は第一ディスクから順に14、75、29であった。ここまで掛かった時間は約10分。
 取っ手を回して扉を僅かに引き開けると、ほぅという感嘆の息が聞こえてくる。金庫の中身は知りたくないので全開にはしなかった。
「なるほど、確かに佐野義史の秘蔵っ子と噂されるだけの実力はあるようだな」
 銀髪の男の口から出た名前に眉が寄りそうになったのをなんとか抑えて、私は無表情に男を仰ぎ見た。
「お支払いは現金にされますか? それともカードで?」
 解錠の料金も使える支払い方法もあらかじめ伝えてある。解錠作業が終わった今、私は早くこの場から離れたい気持ちでいっぱいだった。私の言葉に男はふっと笑う。
「まぁそう急かすな。おまえにはもっと良い物を用意している」
 そう言って銀髪の男は私の背後へちらりと視線を向ける。その視線につられて背後を振り返ろうとした次の瞬間、私は背後いたバーテン風の男に両腕を背中の方に捻り上げられ、膝を折るようにしてゆるやかに床に引き倒されていた。
「やっ、痛っ……な、何!?」
「おい、手は商売道具なんだから丁重に扱えよ」
「分かってますよ」
 銀髪の男に私を引き倒しているバーテン風の男が答えるのを聞きながら、私は背中にぐっと圧力を掛けられるのを感じた。代わりに腕を抑えつける力は僅かに弱められる。
 地面にうつ伏せに引き倒されたまま目を見開いて自分を見上げる私を見下ろして、銀髪の男は楽しそうに笑い、金庫の扉を大きく開けてみせた。
「俺は優しいから今度も選ばせてやるよ、ミス・ロックスミス。俺たちの仲間になってその能力を活かし高い地位を得て裕福な生活を送るか、身綺麗なうちに死んでおくかをな」
 先程とは矛盾した台詞を吐きながら男は嘲笑う。開かれた金庫を奥まで見て、私はこの鍵開けがあくまで私の能力を試すためのテストであったことにようやく気付いた。……金庫の中には何も入っていなかったのだ。



 全ての始まりは、私の勤めていた鍵屋の事務所に入ったとある一件の依頼だった。
「安田さんが帰ってこない?」
「そうなんだよ。もう丸一日連絡すらないし、元々ちょっと怪しい依頼だったから心配で」
 そういって眉を下げるのは、黒のウェリントン型の眼鏡が似合う知的な雰囲気の初老の男性、佐野義史。私が務める鍵屋の所長で、世界にたった三人しかいないマスター・ロックスミスの称号を冠する男であった。私にとっては上司であると共に解錠技術の偉大なる師でもある。
 安田さんは本名を安田英介といい、佐野さんを同じく師と仰ぐ兄弟子であった。私たちは弟子といえども見習い期間はとうに過ぎており、今は一鍵師として佐野さんに雇ってもらっている。佐野さんの弟子は私たちだけではなく全国に数多くいるが、今この師の元に残って働いているのは私と安田さんだけであった。ちなみに佐野さんは今も見習いを四人ほど抱えており、私や安田さんも時々指導に当たっている。
「怪しい?」
 首を傾げた私に佐野さんは頷いた。
「ダイヤル式金庫の番号を忘れてしまったから開けてほしいっていう依頼だったんだ」
「ああ、なるほど。依頼者の身分証明書とってないんですか?」
 確かに怪しい依頼ではあるが、こういった依頼は全く無いというわけではない。所有者が亡くなり相続したものの、元の所有者が暗証番号を被相続人に伝えていなかったというケースもある。こういった場合は事前にか、もしくは現場に着いてから身分証明書を確認させてもらうのが鍵師の業界では通例であった。
「依頼が依頼だったから事前にファックスしてもらってるよ」
 佐野さんはその用紙を渡して見せてくれた。少々写真の写りが悪いような気もするが、なんの変哲も無い普通の運転免許証である。
「こちらから連絡はとってみたんですか?」
「もちろん。仕事用のケータイもプライベートのケータイも何度か鳴らしたよ」
 つまり電源は切れておらず、電波も通っているが電話に出ないと。
「……やっぱり心配だ。もしかしたら何かトラブルが起きたのかもしれない。ちょっと依頼先に行ってみるよ」
 そう言って佐野さんは白いワイシャツの上に紺色のジャケットを羽織り、ピッキング道具の入った黒いポーチを腰に掛けた。
「大丈夫ですか? 警察に相談した方がいいんじゃ……」
 心配する私に佐野さんは苦笑いしてみせる。
「たった一日連絡が取れないくらいじゃ警察も動いてくれないよ……心配しないで、危なそうだったらすぐ戻ってくるから。今日の業務の采配は任せたよ」
 それが私が聞いた佐野さんの最後の言葉となった。
 その日佐野さんが戻ってくることはなく、翌朝彼は首だけの状態となって事務所に届けられた。



「警視庁公安部の風見と申します。以降、佐野義史氏と安田英介氏に関する捜査は捜査一課に代わりまして我々公安部が引き継がせていただきます」
 そう言って警察手帳を見せてきたのは身長が高くガタイの良い三白眼の男だった。
「はあ、公安ですか……」
 捜査一課が殺人事件を取り扱っているのはドラマや書籍でも取り上げられているのでなんとなくわかるが、公安部とはどんな部署なのだろう。捜査一課からわざわざ担当が変わるということは、私たちはもしかして何か特殊な事件に巻き込まれているのだろうか。
 私は見習い中の兄弟弟子たちと顔を見合わせた。私を含めて全員が困り顔である。
「今回の事件に関して皆さんにいくつかご相談したいことがあります。ここではお話できない内容ですので、皆さん一度署までお越しいてもよろしいでしょうか?」
「ええと……事情聴取ならみんな捜査一課の刑事さんから受けていますし、全員アリバイもあったはずなのですが……?」
 刑事さんの言葉に私は小さく手を上げておずおずと抗議した。所長亡くなった日、私はその日入った仕事を一人で回さざる得なかったため一日中ほぼ休む間も無くあちらこちらで鍵開けをしたり新しい鍵を付けて回っていたし、社用車にはドライブレコーダーも付いているのでアリバイはきちんとしている。見習い組も内二人は私と共に行動していたし、残り二人は所長の推定死亡時刻には別の場所でアルバイトをしていたので全員のアリバイが完璧だった。尊敬する師の生首がクール便で届いた時のショックと恐怖は未だ記憶に新しく我々を苛み続けており、できればもう一度その時の状況について説明させられるのは勘弁願いたかった。
「ええ、もちろん一課から話は伺っていますし、我々も貴女方が犯人だとは思っていません。……誤解しないでいただきたい。我々公安部は貴女方の中から犯人探しをしたいのではなく、貴女方の中から次の被害者が出るのを防ぎたいんです」
 刑事さんの言葉に再び顔を見合わせる私と兄弟弟子たち。署に、と言われたので再び事情聴取されるのかと思ったのだが、どうやらこの件は想像以上にきな臭い話らしい。無論、この中から次の被害者が出るかもしれないなんていう話をされた私達に刑事さんの申し出を拒否する勇気のある者はいなかった。



 風見刑事から伝えられた内容は色々と衝撃的だった。公にはなっていないが、実はここ数ヶ月何人かの有名な鍵師が行方不明、もしくは殺害されていること。それには少々やっかいな組織が絡んでいるということ。そして率直に言って次に狙われる可能性が一番高いのは私だということ。その可能性を下げるために事務所はいったん畳むべきであるが、鍵師としての高い技術がある限り絶対に安全だとは言えないこと。告げられた内容に私はただ顔色を悪くするしかなかった。
 師匠である佐野さんは随分と私の能力を買ってくれており、事あるごとにすごい弟子がいるんだと周りに言って回っていたらしい。佐野さんは警察に頼まれてピッキングの技術指導なども行っている人であったから、一部の警察の中では私もちょっとした有名人なんだとか。……光栄な話ではあるが、この状況下では具合の悪い話でしかない。
 見習い組はいったん鍵師の世界から離れることを勧められた。私も日本の鍵師協会のマスター鍵師の資格を持っているので弟子を持って指導をすることは可能だが、もしものことがあったら大変だ。それに犯人一味が求めているのは技術力の高い鍵師ということなので、見習いの彼らは業界から離れてさえしまえば安全だろうということだった。
 私には一定期間警察の護衛が付けられることになったが、はたしてそれにどれほど意味があっただろう。私は自分を護衛していたはずの男性が見知らぬ黒ずくめの男の背後でうつ伏せに倒れているのを視界に収めながら一歩後ずさった。
「佐野義史の所で働いていた鍵師の女で間違いないな?」
「…………」
 いいえと叫びたい。しかし確信を持って紡がれたような声の前で、それを口に出す勇気は無かった。男の手には拳銃が握られている。
「依頼だ。お前の兄弟子が解錠に失敗し、師が解錠を拒んだ金庫を開けろ。お前のとこの事務所が一度受けた依頼だ。最後まで責任を持ってもらおうか」
 断れば師匠と同じ運命を辿ることになるのだろうことは容易に想像できた。風見刑事からは万が一の時は命を最優先するように言われている。私は震える声で口を開いた。
「ピッキング用の道具を取ってきても……?」
 その質問に男は笑う。
「その必要はない。お前の師と兄弟子のピッキング道具がそのまま取ってあるからそれを使うといい」
 私は逃げられないことを悟った。促されるまま、男と同じように真っ黒い車に乗せられる。運転席にはまた別の黒ずくめの男が乗っており、私を車に押し込んだ男が合図をするとすぐに車は発車した。これから私が向かうのは師匠と兄弟子が行ったきり帰ることの許されなかった場所。……はたして私は生きて帰れるのだろうか。
 こうして話は冒頭に繋がるというわけである。



 さて、仲間になるか死ぬかの選択を迫られた私が出した答えは何だったか。こうして今も生きているのだからお察しいただけるだろう。作戦コードは命を大事にである。
 とはいえ、私とて何も本気で彼らの仲間になろうなどと思っている訳では無い。そして彼らもまた、仲間になると言った私の言葉を本気で信じている訳では無い。
 ……だから今、私はピッキング道具を取り上げられた上で鍵の厳重に掛かった部屋に押し込められている訳である。独房のような所に監禁されるのを想像したが、部屋は窓がないことを除けば普通のワンルームのようでベッドやテーブルが置かれており、見たところ浴室やトイレもあるようだった。
 バーテン風の男に両腕を背中で拘束されたままの私を眺めながら、銀髪の男は口を開いた。
「近々うちのナンバー2がお前に会うと言っている。今は命惜しさに俺たちの仲間になると言ってるだけだろうが、アレに会えば心の底から“あの方”につくしたいと思えるようになるから安心するといい」
「…………」
 心に浮かんだ不満と疑問を隠すために私は俯いた。ナンバー2とは一体何者なのか。会えば気持ちを変えられるなんて、まるで催眠術師か何かのようである。
「悪いが、それまでは囚われのラプンツェルでいてもらおうか」
「…………」
 ラ…………? シリアスな場面にも関わらず、私は膝から力が抜けるのを感じた。私を拘束していたバーテン風の男がさり気なく支えてくれたため転倒は免れる。俯いていて良かった。そうでなければ私は、コイツ頭大丈夫か? という目で銀髪の男を見てしまったかもしれない。そんな私をよそに、銀髪の男は「後は任せたぞバーボン」と言い残しどこか満足げな顔で部屋を出ていく。
 もしかして感性がおかしいのは私の方なのかとおそるおそる私を拘束するバーボンと呼ばれた男の方に振り返ると、彼は感情の見えない表情で銀髪の男を見送り、それから私たち二人だけになると本当に微かに口元を歪ませて笑った。その笑みの理由について考えるよりも早く、男は私の頬に掛かった髪を掬い眼鏡のテンプルを隠すように耳に掛けると、ギリギリまで唇を近付けて小さな声で囁く。
「逃げるつもりならもう少し待った方がいいですよ。近いうちにチャンスが来ますから」
 …………え?



 部屋の中では拘束されることもなく比較的自由に過ごすことが許された。とはいえ暇を潰す方法は用意されていた流行の本を読むか昼寝をするか、昼間からゆっくり風呂に浸かるかくらいしかない。部屋の外には常に誰かしら見張りが立っているらしく、喉が渇いただとか洗剤が欲しいだとかいう簡単なお願い事は声を掛ければ叶えてもらえた。どうやら本気で私を仲間にしようという気があるらしい。予想外に丁重な扱いに、こんな生活が何日も続いたらそのうち脳味噌がが溶けそうだなぁと少し心配になるが、バーボンと呼ばれていた男の言った通り、転機は僅か三日で訪れた。
「悪いな、ラプンツェル。しかし今宵は魔女が不在なんだ。少々窮屈だろうが、王子をも惑わせるお前の歌声は封じさせてもらおう」
 なんだって……? 私は背中で手錠に両手を固められ、ベッドから鎖の繋がる足枷を嵌められながら、言葉を発した銀髪の男をまじまじと見つめた。どうやらラプンツェルごっこが継続されているところまでは察したが、意味がまったく分からない。ここに居るのは魔女でも王子でもなく師匠や兄弟子を殺害した犯罪者だけだし、私が今封じられているのは歌でも声でもなく両手と両足である。
 ……まぁ、佐野義史の一番弟子たる私をこんなチャチな手錠と足枷で封じられると思ったら大間違いなのだが。
「ジン、もうそろそろ出なくては」
 部屋唯一の出入口からひょっこり現れたのは、以前見掛けたバーテン風の服ではなく、高価そうなスーツをピシッと着こなした金髪の男だった。ジンと呼ばれた銀髪の男が「ああ」と頷いて部屋を出ようとしたところで、金髪の男がにっこりとこちらに微笑み掛けてくる。
「こんばんは、ラプンツェル。今宵は魔女が出払っているので是非塔を登ってみたかったんですけど、残念ながら今日は僕もサバトに出席しないといけなくて」
「は、王子に憧れる魔女か。塔から落ちて失明したいとは酔狂だなバーボン」
 金髪の男の台詞を鼻で笑う銀髪の男。しかし金髪の男は気にした様子も無く小首を傾げた。
「彼女の涙で再び世界に光が満ちるなんてロマンティックじゃないですか」
「……ほら、行くぞ」
 銀髪の男は呆れたように溜息を吐くと、さっさと部屋を出てしまう。金髪の男は「もう、貴方から振ったくせに」とごちると、「おやすみなさい、ラプンツェル。明日の朝にはまた誰かしら戻って来ますから、それまで良い子で待っててくださいね」と言い残し部屋の扉を閉めた。ガチャリ、と部屋の外側から鍵が掛けられた音がする。
 遠ざかっていく二つの足音。それが完全に聞こえなくなって、私は静かに深い息を吐いた。
 彼らのやりとりはほとんど理解できなかったが、それでも一つ分かったことがある。……明日の朝まで、この部屋の見張りは誰も居ないということだ。



 扉が閉まってから私は6百秒程数え、扉の外に声を掛けて誰からの返事も得られないことを確認してから行動を開始した。
 まずは履いていたジーパンのベルトループを探って手錠用ピックを利き手の人差し指と親指で摘み取った。手錠用ピックとは長さ1センチ、幅5ミリ程度のごく小さくて薄い金属製の板のことだ。風見刑事から次に自分が狙われる可能性が高いと聞いた時から私はボトムスは必ずベルトループのあるものを履き、前後両方にこの手錠用ピックを忍ばせて生活し万が一に備えていたのだ。
 手錠は実はとても単純な作りであり、輪についた歯と歯止めが噛み合っているだけなので、この歯止めの部分に金属板を滑り込ませるだけで歯が噛み合わなくなって外せてしまう。
 今回は後ろの方で拘束されたため手錠が見えずやや時間を要したが、それでも手探りで一
分もしないうちに手錠が外れた。
 両手をグーパーして握り感覚を確かめてから、同じ要領で足枷も外し、今度は扉に近寄って掛けていた眼鏡を外す。そしてリムを掴むと、私はやや太めにデザインされた左右のテンプルそれぞれをきゅっと引っ張った。するとリムの見かけをしていたカバーが外れて、中から4本の針金のようなピッキング 道具が現れる。実はこれ、師匠からもらったピッキング道具仕込みの伊達眼鏡である。度を入れることも可能だが、私の視力は両眼とも1.0なので必要がない。ちなみに師匠もデザインの違うピッキング道具仕込みの眼鏡を愛用していたが、そちらには度が入っていた。遊び心のある師匠がオーダーメイドで作ってくれたものだが、まさか本当に使うことになる日が来るとは。
 私はL字型のテンションレンチを手に取って鍵穴の底に滑り込ませた。それから先がダイヤの形になっているピックで鍵穴の奥から順にピンの感触を触り、上下のピンの境目でぎりぎり引っかかるようにそれぞれのピンを押し上げる。ピッキングしにくいタイプのピンを使用していることは分かったが、コツさえ掴んでしまえばピンタンブラー錠で開けられないものはない。全てのピンの仮セットを済ませたら、今度はテンションレンチで適度な捻りを保ちながら、もう一度順番にピンを一本、二本と少しずつ押し上げていく。そして五本全てピンを押し上げると、シリンダー全体が屈したのを感じた。テンションレンチに掛ける力を強めてシリンダーを回転させる。カチャン、と解錠される音がして、私は素早くドアノブに手を掛け扉を開いた。
 ……よし! 誰もいない!
 私はバラバラになった眼鏡のパーツをひとまず掻き集めて辺りを確認しながら廊下を進む。
 できれば佐野さんか安田さんのピッキング道具を回収したいなと思っていると、それは私が最初に連れてこられた部屋の机の上にケースにしまわれた状態で置かれていた。ケースの側には何種類かの錠前が置かれていたので、もしかすると誰かがピッキングを練習していたのかもしれない。運の良いことに、私の貴重品などが入った鞄もその側に置かれていた。
 私は鞄の中に二人の道具と手に持っていたバラバラの眼鏡を放り込み、ここに連れてこられた時の道を辿りながら足早に建物を脱出した。



 それから私は辛うじて電池の残っていたケータイで現在位置を調べタクシーを呼び最寄り駅まで移動した。その後はGPSもちゃんとオフにする。駅近くにはコンビニもあったので、財布にきちんと残っていたキャッシュカードとクレジットカード全てで限度額まで現金を下ろし、ケータイの充電器と水と保存のきく食べ物を調達して電車に飛び乗った。終電まではまだどの路線でも数時間はある。この間にできるだけ遠くまで行かなくては……。



 脱出してから3日ほど掛けてたどり着いたのは、田舎の小さな港町であった。海辺の温泉宿に偽名で宿泊しながら、これからどうしようかなぁと考える。金銭的に何日も温泉宿に宿泊するという訳にはいかないが、この田舎に漫画喫茶などというものはないし、かといって女の身で公園に野宿という訳にもいかない。さすがにアパートなどは偽名では借りられないので、やはり漫画喫茶かカプセルホテルがあるようなもう少し都会まで移動するべきか。
 そんなことを考えながら畳の上をゴロゴロと転がっていると突然部屋の玄関口の方からガタンとドアノブを引くような音が聞こえて私は飛び上がった。当然鍵を掛けているのいきなり開いたりはしなかったが、続いて職業柄聞き慣れたカチャカチャと細かい音が聞こえてきて私は何者かがこの部屋をピッキングしようとしていることに気付く。
 現在の自分の状況を鑑みて、最悪の可能性が頭を過ぎった。
 今いる部屋は三階。窓の下は緑の多い庭園になっているので運が良ければ飛び降りても骨折程度で済むかもしれないが、飛び降りた後に逃げられないんじゃ意味がない。
 どうしようか迷っている間に鍵はガチャンと音を立ててドアの向こうの人間の解錠成功を伝えてくる。しまった、鍵を掴んで回せないようにしておくべきだった。
 一応U字ロックも掛けてはいるが、ピッキングができるような相手であればこれがいかに簡単に外せるかも知っているだろう。
 今からでもどうにかならないかと玄関へと繋がる襖を恐る恐る開けると、U字ロックでかろうじて全開にはなっていないドアの隙間からはしっかり何者かの黒い革靴差し込まれていた。男性のものだ。
 そして白い手袋を嵌めた大きな手が、プラスチック性の黄色い梱包紐をU字ロックに掛ける。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って、入ってこないで!」
 私ははっとドアに近寄った。U字ロックを解除するためには、この後扉を一度閉める必要がある。その瞬間に鍵を閉められないかと思ったのだ。
 しかし、私はドアに辿り着く前に動きを止めることとなった。
 ドアの隙間から、銃口が差し込まれたからだ。
 前にも進めず、後ろにも引き返すこともできず、私はその場で凍り付いた。血の気が引いていく。
 U字ロックに梱包紐が絡められた状態で閉じていくドア。全てがスローモーションに見えた。
 ループされた梱包紐がするりと動き、ロックがパタンと扉の方に打ち付けられる。
 そして全ての守りを失ったドアはゆっくりと開かれた。
「こんにちは、ラプンツェル。サバトが終わったので貴女に会いに来ました」
 そう言って微笑みながら現れたのは、バーボンと呼ばれていた金髪のバーテン風の男。
 これから自分がどうなるのか、私にはまったく予想がつかなかった。



 それから男はきちんと揃えて靴を脱ぎ部屋に上がると、どういう訳かのんびりとお茶を淹れ始めた。
 恐々と立ち尽くす私の腕を引くと座椅子に座らせ、お茶とお茶菓子まで出してくる。……待って、その白い卵の形をしたお茶菓子、もしかしてわざわざ買ってきたの……?
 色々な意味で慄く私の隣に、自分も向かい側に置いてあった座椅子をわざわざ移動させて座った男は「まぁお茶でも飲んで落ち着いてください」と自分の湯呑みに口を付けた。
「センスの良い宿を選びましたね。温泉旅館ですか」
「…………」
 彼らの元から脱走し、遠く離れた地の旅館にわざわざ偽名で潜伏していた私になんと返せる言葉があっただろう。顔色を悪くして震える私に男は苦笑いした。
「そう怯えないでください。別に貴女を消しに来たとかではないので。……少し話をしませんか?」
 私はのろのろと視線を男と合わせた。この男には確かに私が逃げようとしているのを知りながら見逃し、なおかつさり気なく情報提供をしてくれたという実績があることを思い出したからだ。よく考えてみれば、私を殺すつもりであったのならわざわざそんなことはしていないだろう。
「……どうしてここが分かったんですか?」
 私の質問に男は少し考えるように指先で顎に触れてから、その指で机に置かれていたスマホをちょんちょんと指差した。
「本気で逃げるつもりなら今度はスマホとタブレットも捨てていった方がいいですよ」
 つまり、スマホとタブレットに細工がしてあると。しかしスマホもタブレットも無しにどうやって移動方法の確認や現地の情報収集を行えばいいのだろう。確かに自分だってスマホやタブレットの無い時代を生きていたはずなのに、それはもう遠い昔のことのように思えた。
 それにしても、この男が私の居場所を知っているということは、あの物騒な銀髪の男も私の居場所を知っているということなのではないだろうか?
 私の顔に浮かんだ不安を男は正確に読み取ったようだった。
「心配しなくても、貴女の居場所を知っているのは今のところ僕だけです」
「……貴方、一体何者なんですか……?」
 あのどう見ても危険な組織の一員であるくせに、まるでその組織を裏切るような真似をしている男。ピッキングや追跡技術のやたら高い男。そして人の心を読むのが上手い男。いくら穏やかな態度であろうと、その得体の知れなさと底知れなさに恐怖を覚えずにはいられなかった。
「僕は安室透、探偵です」
「探偵……? 探偵がなんで……」
 探偵が何故あんな組織に所属しているのか。そして何故一度は私を逃しておきながらわざわざ追い掛けてきたのか。
「貴女の疑念は最もです。でも、僕にも守秘義務があるのでそう多くは語れません」
 守秘義務? 誰かからの依頼で探偵として動いているのだろうか? 誰が? それこそ何のため? ……いや、彼が誰の指示で動いているのかはともかくとして。
「これから私をどうするつもりなんですか?」
 一番の疑問だった。こんな田舎の港町まで遥々やって来るくらいなのだ。まさか顔を見に来ただけというわけではあるまい。
「それは貴女次第ですよ」
「私次第……?」
 安室と名乗った男を訝しげに見遣ると、彼は不敵に笑ってみせた。
「僕には貴女をあの組織から守り抜く用意がある」
「……は」
 こんな状況だというのに、その表情と声に魅せられて私は一瞬呼吸を忘れる。今更だが、安室という男はとても整った顔立ちをしていた。
「い……一体何のために? それで貴方に何の得があるの? ……あ、えっと、何の得があるんですか……?」
 言い直した私に安室さんはふっと息を漏らした。
「僕のこれはクセのようなものなので、貴女は敬語じゃなくてもいいですよ。……さて、僕が貴女を守る理由、ですか。……そうですね、ここは貴女の歌声に心惹かれたから、と言いたい所ですが……」
 まだそのネタを引きずるのか。思わず半眼で安室さんを見ると、彼は肩を竦めてみせる。
「貴女の場合は、“開けて欲しい鍵があるから”と伝えた方が逆に安心するかもしれませんね」
 逆に……? ……とりあえず、私の解錠技術が目当てということで良いんだろうか。
「……もし断ったら?」
 素朴な疑問として首を傾げた私に、安室さんもまた首を傾げてみせる。
「それはどちらを?」
「……両方?」
 質問に対して疑問系で返してしまう。おそらくこの時にきちんとそれぞれの選択肢について突っ込んで聞いていれば私は後々色々なことを悩まずに済んだのだが、きっとこのやり取りさえ彼の手のひらの上だったのだろう。
 安室さんは首を捻ったまま「うーん」と唸った。
「そうしたら僕は貴女を全裸にして監禁でもするしかないかな」
「…………」
 ことも無さげに答えた男に私は他にすべき質問も忘れてドン引きした。いや、言いたいことは分かる。確かに私は身体のいたるところにピッキングの道具となりうる物を持っている。しかし、それなら単純に着替えさせればいいだけで全裸で監禁する必要はないはずだ。
 私がドン引きしていることに気付いていないはずもないというのに、安室さんは穏やかに微笑む。そして自分に近い方の私の手をそっと取った。
「ラプンツェル。僕にはね、佐野義史氏から受けた恩があるんですよ」
「恩って……?」
 師匠は鍵師としても人間としても出来た人間であった。彼に対して恩義を感じている人間がいてもおかしくはない。しかし、それがどうして今の状況に繋がるのだろう。
「それは秘密です。でも、彼のことを守ることができなかったので、せめて彼の一番弟子である貴女を守りたいと本心で思ってるんです」
 取られた手を柔らかく撫でられて肌が粟立った。……あの、えっと、なんか手付きがいやらしくないですか?
「それって、私には守られたいか守られたくないか選ぶは権利無いの……?」
 ぞくぞくした感覚に妙な声が出てしまいそうなのを押し殺しながら尋ねる私の声は震えていた。そんな私に、安室さんは掴んだ手を視線の高さまで上げてにっこりと笑う。
「すみません、諦めてください」
 手の甲にチュッと音を立てて口付けが落とされた。




2019.9.16