雨の日の朝は普段よりも起きるのが少しだけ億劫だ。鳴り続ける目覚まし時計を手探りで止めて、人間工学に基づいて作られたとかいう低反発の枕にぐりぐりと顔を押し付ける。もう少しだけ寝ていたいけれど、今日はゴミの日だからちゃんと起きなきゃ。ぐりんと仰向けになって、ひとりで眠るには広すぎるキングサイズのベッドで伸びをする。ゆっくりと10秒数えてから、わたしは上半身から起き上がった。ふと隣に目をやると、真っ白い毛のかたまりがわたしと同じように伸びの体勢をとっていて思わず口元がほころぶ。この子のおかげで、あまり家主が帰らないこの家でも寂しさを感じることなく過ごせていた。腰元にすり寄ってきた猫の柔らかな背中をひと撫でし、わたしはベッドサイドに置いてあったスリッパに両足を入れる。さて、今日の朝食は何にしようかしら。



降谷さんちの奥さん




 わたしの一日は、まず夫の部屋のドアに掛かっているホワイトボードを確認することから始まる。今朝の表示は"外出中"。ここ数日書き換えられた様子はない。念のためドアをノックして開けてみるけれどやはり部屋に夫の姿は無かった。次に脱衣所に移動して洗濯物が出ていないかを確認する。忙しい夫は時々着替えのためだけに家に寄ることがあるからだ。
「ゆうべも帰らなかったのかぁ……大丈夫かなぁ……」
 夫は警察という仕事柄忙しい。詳しく聞いたことはないが、少し特殊な部署に勤めているらしく、お休みも不定期で何日も帰らないことがある。ようやく帰ってきたと思ったらけして小さくはない怪我をしていることもあって、市民を守る夫のことは誇らしくはあるものの、妻としては心配で仕方がなかった。次はいつ会えるのかなぁ……。
 脱衣所に来たついでに歯を磨いて顔を洗い、洗面台の収納スペースから化粧水と乳液を取り出してやさしく顔になじませる。水と櫛を使って軽く髪も整えた。晴れていればこの後洗濯機を回すけれど、今日は朝から生憎の雨。昨日洗濯したので洗濯物はまだわたしの一日分の服しかなく、浴室乾燥を使う必要もなさそうだった。
 次は猫のごはんだ。リビングに繋がっている廊下にある棚から猫の餌を出し、必要分を器に移す。餌の入った袋を棚にしまい直してからリビングに移動すると、待ってましたとばかりに猫がやってきた。食事の定位置は対面キッチンのカウンターの下。水も新しいものに変えてやって、しばらく猫がごはんを食べる様子を眺めた。なごむ……。
 寝室に戻り、奥に繋がるウォークインクローゼットに入る。今日はゴミ捨て以外で部屋を出る予定は無いから、ゆったりとした丈の長いネイビーのワンピース。袖は7部丈。ギザ綿というちょっと質の良い綿でできているらしく、着心地が良い。ちなみに夫セレクト。これはちょっとした自慢なのだが、夫はセンスがいい。警察という仕事柄か観察力もあり、髪型などの小さな変化にも気付いて褒めてくれる素敵な夫だ。あらやだノロケちゃった。
 ワンピースのポケットにスマホと家の鍵を入れて玄関に移動し、昨日のうちに用意しておいたゴミ袋を手に部屋を出る。オートロックのマンションなので本来施錠の手間はいらないのだが、わたしも夫も部屋を出るときは必ずノブを回して鍵がきちんと閉まっているかを確認する。文明の利器は便利だけれど、信用のし過ぎは良くない。ちなみに鍵にはICチップの入った薄いキーホルダーがついており、エレベーターとマンションの正面玄関、マンション内部から繋がるゴミ捨て場はこのキーホルダーが無いと開かない仕組みになっている。このマンションに引っ越してきた当初はハイテクさとセキュリティのすごさに感動し、外出やゴミ出しをするたびにちょっとテンションが上がってしまっていたのは内緒だ。
 さて、部屋に戻ってきてようやく自分の朝食の準備である。本業でもないのに料理上手な夫が用意してくれたレシピノートを眺め、冷蔵庫にある素材を思い浮かべながら何を作るかを検討する。このノート、時々レシピが追加されているので飽きがこない。本当はレシピノートはわたしが書いている分も別にあるのだけど、自分の料理は自分で味の想像がついてしまうのでつまらなく、つい夫のレシピばかり使ってしまうのだ。……あ、今日はこれにしよう。バゲットのフレンチトースト。ちょうど昨日お気に入りのパン屋さんで買ってきて食べ残したバゲットがあるのだ。
 まずは薄めにバターを切って常温で放置しておく。"絶対にレンジで溶かさない!"と赤ペンで書き込みがしてあってフフっと笑ってしまった。夫はわたしの性格をよく知っている。次にバゲットを2cm以上の厚さにカットして、柔らかいパンの部分に十字に切り込みを入れておく。それから卵と牛乳と砂糖をよく混ぜてザルでこし、出来上がった液体にカットしたバゲットを浸した。この時バゲットを左右からぎゅっと挟むと形が戻るときによく液を吸ってくれるらしい。液が大体染み込んだらオーブンの天板にクッキングシートを引き、液の染み込んだバゲットを並べる。少し残ってしまった液体は上から掛ければいいようだ。再び液を染み込ませている間に常温に戻したバターをホイップする。概ねホイップしたら今度は徐々にグラニュー糖を加えながら更にホイップし、ふわふわに仕上がったシュガーバターをバゲットに塗る。むむ、バゲットが柔らかくなってしまってるのでつぶさないように塗るのがなかなか難しい。でも再び赤ペンで"潰して液を絞ってしまわないように!"と注意書きがあるので頑張ります……。頑張ってシュガーバターを塗り終えたら、あらかじめ200度に温めておいたオーブンで10分ほど焼く。10分経ったら手早くひっくり返してもう片面も焼き、あとはきれいな焼き目がついたら完成である。ああ、バターの焼ける香ばしい匂いでおなかがきゅーっとする。焼けるのを待っている間にお湯を沸かし、紅茶の準備をした。茶葉は友人がロンドン旅行のお土産にくれたイングリッシュブラックファースト。コクはあるけどクセがなくて飲みやすい。紅茶をカップに入れ終えたのとフレンチトーストが焼きあがったのはほぼ同時だった。チン、と音を立てたオーブンからフレンチトーストをいそいそと取り出しお皿に並べる。あーん、おいしそう! テーブルにフレンチトーストと紅茶、ナイフとフォークを並べて……いただきまーす!
「おっ、おいしい〜〜〜〜!」
 おいしすぎて口の中に入れた瞬間目の前がチカチカするほどだった。なにこれおいしい!ナイフで叩くと表面はカラメルで少しパリッとしてり、中はしっとりふわふわプリンのような食感。バターをたっぷり使っている分、通常のフレンチトーストよりはややどっしりとした感じはあるがくどくない。え〜〜、零さん天才過ぎない!? 食べる手が止まらない。フレンチトーストはあっという間にお皿から消えてなくなった。名残惜しさを感じつつ、また今度作ろうと決意する。この感動が薄くならないうちに零さんレシピの感想日記も書いておこう。
 朝食の後は部屋を軽く掃除して回る。猫が一緒に眠ったベッドは布団クリーナーで念入りに。零さんの部屋は机周りさえ弄らなければあとは好きに片付けて良いと言われている。本棚に新しい小説を見つけたのであとで借りようかな。
 そうこうしているうちにお昼ごはん。朝食時のような感動はそうそう味わえないと思ったので、レシピは使わず野菜をたっぷり入れたうどんに卵を落とした。麺は安易に冷凍だけどこしがあっておいしい。ツルツルと麺を啜っているとポケットに入れたスマホが音を立てた。……この音は零さんからのメールだ!食事中ではあったが慌てて箸を置いてスマホを見る。そこには簡潔に一言。しかしわたしを喜ばせるには充分な文面だった。
"今夜は帰ります"
「わ……わわ! やったぁーー! ……あ! 夕飯! 夕飯なににしよう!? そ、そうだ返信……夕飯何食べたいですか、っと!」
 程なくして再び着信音が鳴る。昨日買い物に行ったばかりだけど材料なかったら買いにいこう。そう思いながらメールを見ると……。
""
「〜〜っ!?」
 そうじゃない! そうじゃないよ零さんあなたメールとはいえ仕事中に言ってるの! もう、もう、もう! シラフだよね? 疲れてるのかな? これは特に希望はないっていうことだろうから、カレーでいいかな? はい、カレー! カレーに決定。カボチャとナスとトマトがあるから、夏じゃないけど夏野菜カレーにしよう。サラダはシーザーサラダでいいかな。あ、シメジとエリンギを入れたコンソメスープも作ろう。今日は冷蔵庫の中身を大解放だ!


 ところで"今夜"というのは具体的に何時頃のことを指すのでしょう? 17時30分。スマホを片手にわたしはううんと首を捻った。18時かもしれないし、21時かもしれないし、23時59分かもしれない。夜の範囲は広いのだ。わたしは一緒に夕飯を食べるつもりで随分早くに夕食を作り終えてしまったけど、もしかしたら零さんは夕飯を食べないつもりであんなメールを……? いや、気の利く零さんのことだから夕飯が必要ないならちゃんとそうメールに書いてくれるはず。ならば夕飯を食べ始めるのに問題のない時間内に帰ってくるだろう。スマホをポケットに戻し、わたしは膝の上で丸まっている猫の首をもふもふと撫でた。暖かい猫の毛を触っていると気持ちが落ち着く。もふもふもふもふもふ……。
 嫌がりもせずその毛皮を撫でさせてくれていた猫の耳がピクリと動き、おや、と思った次の瞬間、ガチャリと玄関の鍵が回る音がした。ついに家主が帰ってきたのだ。音に驚いたのか猫がぴょんっと膝から飛び降りる。部屋の隅の方へ逃げていく猫を目で追いつつ、しかしわたしは反対側の玄関へと続く廊下へと向かった。
「おかえりなさい!」
 ちょうど部屋の中へと身体を滑り込ませるところだった零さんに声を掛ける。彼は一瞬きょとんとした様子で「ああ……」と呟いたが、ふっと表示を緩めると穏やかに笑い「ただいま」と答えた。前に見たときより少しヨレてしまったスーツと彼の表情がなんだか愛しくて胸がいっぱいになる。わたしは彼の首筋の後ろに両手を伸ばしてぎゅーっと抱きつき、それからその後頭部をよしよしと撫でた。
「……どうしたの?」
 されるがままになっていた零さんはわたしが手を離すと間近で顔を合わせて若干照れくさそうに聞く。
「ふふふ、お仕事お疲れさまでした!」
 嬉しさと愛しさで笑顔が止まらない。その表情のまま告げると、つられたように零さんも微笑んで、今度はこちらがぎゅっと抱きしめられる。
「……うん。君もお疲れさま。いつも家を守ってくれてありがとう」
 ぽんぽん、と大きな手のひらが背中を優しく叩く。わたしは「えへへ」と彼の胸に己の頬を擦り寄せた。ああ、幸せだなぁ……。
「今夜はカレー?」
 すん、と鼻を鳴らして彼が聞く。
「うん。お風呂もあとはお湯張るを入れるだけなんだけどどうする?」
「じゃあ先に風呂に入ろうかな。は先にシャワー浴びたんだろ?」
「えっ!?」
 彼は指先でわたしの髪をするりと一房すくった。
「カレー作ったはずなのに髪からシャンプーの良い匂いがする」
「……あ、うん」
 まるで期待しているような自分が恥ずかしくなって俯くと、零さんが吐息だけで笑う気配がした。ちらりと目線だけを上げると、その拍子に額へキスが降ってくる。わ、と反応するよりも先に流れるような動作でわたしの耳元に移動したその唇は、耳たぶをかすめながら甘く囁いた。
「下ごしらえは済んでるようだから、あとは僕が調理するだけかな」
「!?」
 とっさに耳を抑えるがもう遅い。わたしの鼓膜に甘かな毒を残した主は楽しげな背中で廊下を進んでいく。脱衣所にその姿が消えるまで、わたしは毒の効果でぼんやりとその場に立ち尽くすしかなかった。




2018.5.12