遠水渇を救わず




(……?)
 ふと馴染みのない気配を感じた気がしては足を止めた。気配を消したまま、二・三歩後ろ歩きをして、通り過ぎかけた部屋の前まで戻る。部屋のプレートを確認すれば"保健室"の文字。耳を澄まさずとも聞こえてくる声は三者のもので、そのうち二つはも知っている保健委員の忍たまのものだった。さて、残る一つの声はいったい誰のものか。争う様子は無いようだが……。
 は音無く一気に戸を開いた。
「…………」
「…………」
 見知らぬ男と目が合った。男は黒い忍び装束を着ており、右目以外を包帯で隠していて非常に怪しげである。男は"逃げ"の体勢をとりながら、しかし驚いたように目を見開いてを見た。
「雑渡さん? どうし……ってうわぁ!?」
先生!」
 戸に背を向けて男と会話していた保健委員二人――委員長の善法寺伊作と、一年ろ組の鶴町伏木蔵である――は男の視線を追い、悲鳴を上げた。は二人に向かってにっこりと微笑みかけた。
「だめよ、二人とも。忍者の卵なんだから気配くらい読めないと」
「へ? あ、はい、すみません……じゃなくって、ええっと……」
「あわわわわわ……」
 言い訳を探してそわそわしている伊作と、男とを交互に見ておろおろとしている伏木蔵。彼らへと向ける意識を最小限に、は見知らぬ男に目を向ける。男は未だ逃げもせずを見ていた。
(この男……)
 先程伊作が「雑渡さん」と呼び掛けていた。これが偽名でなければこの男の正体は……。
 は己が隠し持ったクナイを触れることなく確認した。今の自分の実力で勝てるだろうか? ……いや、今のところ男から忍たまに対する敵意は感じないし、戦闘になったところで最悪この二人が逃がせればいい。自ら行動を起こす必要はないだろう。は注意深く男の出方を待った。そして。
「千都(ちづ)……?」
「……!」
 ただ戸惑った様子で呟いた男。は訝しげに男を見遣った。
"千都"
 女のものであろうその名前に、は覚えがあったからだ。覚えがあるどころではない。その名は……。
 思考した瞬間、ピリリと空気が揺れ動いたのを感じてははっとクナイを握る。キィン、と金属同士のぶつかる音が保健室内に響いた。
「私を誰と知ったうえでのその姿か? どこで彼女のことを知った?」
 鋭い眼光でを睨み付けながら言う男。しかしはその気迫に怯むことなく静かに相手と目を合わせた。
「知ったも何も、この見た目は自前です。あなたの方こそ、千都とどんな関係が?」
 母に生き写しだと言われたこの容姿。自身に目の前の男に対する覚えがないとくれば、必然的に男が知っているのは母の方だということになる。
「自前だと? 私は……」
 言いかけて、しかし男は口をつぐんだ。は男を見つめたままその心の内を探す。その瞳に浮かんでいる感情は何だ?
 は慎重に情報を選び、口を開いた。
「私の名前は千都は正真正銘、私の母です」
 男が片方しか見えていない目をこれでもかというほど見開く。
「母? ……ああ、そうか、それで…………。……彼女は、嫁いだのか…………」
 よほど動揺したらしい。の見当違いでなければ男はかなり優秀な忍びのはずだが、今の彼は戸惑いの感情がまるで隠せていなかった。男は力を込めていたクナイをスッと引く。そして暫し沈黙した。
 はクナイを手放さないまま溜息をついた。
「こちらはまだ質問に答えてもらっていないわ。あなた、千都とどんな関係?」
 男はどことなく力ない様子でを見る。
「私は……私は、……いや、ただの昔なじみだよ……」
「…………」
「千都は元気にしている?」
 男の答えに対し考え込むように沈黙したに男が問いかけた。だが、は目を伏せる。その傷はまだ完全に癒えたとはいえなかった。
「母は……つい先日、亡くなりました」
「……そうか。やはり長生きはできなかったか……」
 懐かしむような、悼むかのような男の声。母が病弱であったことも彼は知っているらしい。
「君のお父上はどんな人? 千都は幸せだったかな?」
「…………」
「警戒しなくてもいい。なにかしようっていうわけじゃない。ただ純粋に昔なじみのことを知りたいだけだよ」
 男の声は柔らかく、嘘をついているようには聞こえない。無論、相手が優秀な忍びである以上警戒は必要なのかもしれなかったが、この瞬間、母の思い出を共有するものの存在がいたことには仄かな喜びを感じていた。
「警戒しているわけではありません。ただ、父はいないので……」
「お父上もお亡くなりに?」
 は緩く首を横に振る。
「母は一人で私を生んで、一人で育てました。私は父の顔を知りません」
 相手が"雑渡"と呼ばれていた以上あまり個人の情報を語ることは得策ではない。しかし、そうであるからこそ隠す必要がないとも言えた。なにせ、のその情報はある程度力のある忍びなら容易に調べがつくようなことなのである。……だが、やはり少し安易に話し過ぎてしまったのかもしれない。
 告げた瞬間男の顔色が変わったことに、はすぐに気が付いた。
「君、今いくつ?」
「…………」
 突然真剣さを帯びたその声には告げるのを躊躇った。
「いくつ」
 声を強めた男の声に促されて、はしぶしぶ口を開く。
「……十八」
「!」
 の答えに、男が息を呑んだ。
「まさか……いや、しかし……」
 戸惑いを見せる男の前で、もある予想を抱く。何故父親の顔を知らないと聞いて顔色を変えたのか。何故の年齢を知って息を呑んだのか。"まさか"とはいったい何なのか。"まさか"、この男は……。
 男は探るような様子でしばらくを見つめていたが、やがて覚悟を決めたようにその視線を合わせた。の方はまだ覚悟が付かずに男から視線を逸らしたが、男はを待ってはくれなかった。忍び装束に隠れた口をゆっくりと開き、そして宣う。
「うん、よし。、私のことは"パパ"って呼んでくれていいよ」
 あまり言葉を吟味せず、沸き上がったイラつきのまま、は気が付くと重たい蹴りを男に繰り出していた。だが、男はその足を後ろに下がることでさらりと避ける。は思わず舌打ちした。
「照れなくてもいいのに」
「…………」
 は無言のまま冷ややかな眼差しを男に向ける。何なんだ、この男は。
「申し訳ありませんが、そういう特殊なプレイはそれ専用のお店に行ってやっていただけませんか?」
「パパって呼ぶのが恥ずかしいなら特別に"父上"でも許すよ」
 努めて冷静に声を絞り出したに対し、男はどこか吹っ切れた様子で言った。
「私に父はいないと申し上げたはずですが」
「たしかに、君を育てた父親はいないかもしれない。しかし、人間である以上君にだって血のつながった父親はいるはずだろう」
「それがあなただと?」
 ハッ、とは鼻で笑う。男がを娘だと宣言することで男に特別な利益があると思えない以上信憑性は低いとは言えなかったが、は認めたくなかった。
「……身に、覚えがある」
 男は低く告げる。は男をじっと見つめた。
「私の勘違いでなければ、あなたはタソガレドキ忍び組頭の雑渡昆奈門だとお見受けしますが?」
「いかにも」
 返ってきたのは肯定。はますます分からないというように雑渡を見た。
「そのような方が、何故母と知り合いに?」
 その問い掛けに、雑渡はコテンと首を傾げる。意外な質問だったらしい。だがすぐに首の位置を元に戻すと、ぽんっと片手で作った拳をもう片方の手で打った。
「そうか、君は千都から聞いていないのか。は……は、タソガレドキに数多くある忍びの家系のうちの一つだ。千都はの娘で、私たちは幼い頃からの知り合いだった」
「!」
「どう? 興味が沸いてきたんじゃない? よかったらゆっくりお茶でも飲みながら話そうよ」
 は渋面を作った。たしかに、非常に気になる話ではある。なにせ、長年母との間でタブーであった己のルーツの話だ。雑渡が真に父親であるかどうかはともかく、千都がタソガレドキ出身であったという話は腑に落ちる。どうりで今まで調べがつかなかったはずだ。だが、ここで「はい分かりましたお茶しましょ!」と言うのも躊躇われる。
「……業務中なので」
 はなんとかそう答えた。
「なるほど。真面目なところは私に似たんだね」
 ウンウン、と頷いて見せる雑渡に、はわずかに口元を引きつらせる。もしかしてギャグのつもりなんだろうか。
「ま、でも、攫われたら不可抗力だよね。私って気が利いてるなあ」
「なにを……、っ!」
 言い掛けて、は咄嗟に横に飛んだ。カカカッ、と音をたててがいた場所の背後にあった部屋の扉に八方手裏剣が刺さる。
「へぇ、良い感覚持ってるね」
「……普通、自分の娘かもしれないと思っている相手に手裏剣なんて投げます?」
 身体に傷が付いたらどうしてくれる。それに、もし組頭とはいえタソガレドキの忍者に負けて攫われたりなんかしたら、忍術学園の教師として非常に恥である。なにが「気が利いてるなあ」だ。気の利かせ方がおかしい。
「私が父親だって認めるの?」
「いや、認めませんけど!」
 認めない、というよりは認めたくないというのが正しい。正直なところ、はまだ混乱していた。母親はタソガレドキ出身で、父親はタソガレドキ忍軍の組頭かもしれないって!?
「それは残念。……心配しなくても、その手裏剣に塗ってあるのは毒ではないよ」
「なるほど」
 つまり毒ではないものは塗ってあるわけか。おそらく眠り薬の類だろう。用意のいいことだ。……この男に一対一では少々分が悪い。は雑渡から視線を外さないまま、雑渡の背後の方で状況が掴めず固まっていた保健委員に向かって口を開いた。
「善法寺君に伏木蔵君」
「「はいっ」」
 途端にビシッと背筋を伸ばす二人。
「誰か他の先生呼んできてもらえる?」
「「はい!」」 
 の指示に伊作と伏木蔵はこくこくと思いっきり頷き、立ち上がった。二人で手を取り合い、雑渡との横をドタバタと通り過ぎて慌てたように保健室から出ていく。雑渡がそれを止めなかったことをは少々意外に思ったが、間もなくして、大きな音が廊下から響いてきた。

――「伏木蔵っ!?」「伊作先輩っ!」「うわあああああ」ドンガラガラガッシャーン

「……しばらく戻ってこなそうだね」
 耳を澄ませていた雑渡が言う。なるほど、この男は忍術学園の保健委員のことをよく知っているようだ。は雑渡とまったくもって同意見であったが、忍術学園の教師としてはあまり同意したくないところである。
 複雑そうな表情を浮かべるを見て、雑渡がふっと苦笑した。
「とりあえず表に出ようか。ここで争ったら伊作君が後で泣きそうだからね」




2015.11.28