"マウンテンゴリラ"
その名前は杜若忍術女学園の伝説だった。色の実習の単位を取ることなく、そのくせ、その単位を取得した者の総合点よりもはるかに高い成績を修めて卒業していった歴代最強といわれるくのたま。
いつの頃から始まったのか、杜若には色の実習の単位を取らなくても卒業できるくのたまのことをゴリラと呼ぶ風習があった。
そんな歴代のゴリラの中でも彼女は飛び抜けて優秀で、嘘か真か、素手で凶暴なツキノワグマを倒しただとか、馬とレースをして勝利しただとか、子泣きジジイを背負ったまま登山し無事に目的地に送り届けてきたといった逸話を残している。
プロのくのいちとなった彼女が久しぶりに母校を訪れているという話は、たまたま彼女を学園内で見掛けたくのたまによって瞬く間に学園中に広がった。
ゆく河の流れ
「先生、お久しぶりです」
が久しぶりに会うにかつての担任に手土産を渡して挨拶すれば、恩師はおっとりと微笑んだ。
「久しぶりねぇ、さん。うふふ、マウンテンゴリラの名前は伊達じゃないわねぇ。ほんと、動物園みたい」
「先生……」
は複雑そうな表情をその整った顔に浮かべた。部屋の外に、床下に、天井に、たくさんの気配を感じる。を懐かしんでやってきた後輩が半分、伝説を耳にして興味を持ってやってきた後輩が半分といったところだろうか。皆、"マウンテンゴリラ"の名を冠するを一目見ようと必死である。さほど広いとはいえない部屋の中でたくさんの視線を感じるため、たしかに見世物になったような気分であるが、底にあるものがへの憧れや強いくのいちへの好奇心なのであまり強くも責められなかった。
「やぁねぇ、冗談よ。……それで? 今日はどうしたの?」
「卒業証明書と成績表をいただきにきました」
笑いながら首を傾げた恩師にが告げると、彼女は「まあっ!」と目を見開いた。
「新しい就職先が見つかったのね!」
「はい」
ぱちんと両手を合わせながら尋ねた恩師には素直に頷いた。
「あなたにとって素敵な就職先なのね?」
「……はい」
忍者という特殊な職業柄、卒業生たちは教師にさえどこに就職するかを語らない。それでも、恩師はの表情から何かを察したらしかった。
「そう、良かったわ。さん、前に卒業証明書を取りにきたときは暗い顔をしていたから」
「ご心配おかけして申し訳ありません」
ドクタケ城に就職したときの話だ。顔色だけで心配をかけていたとはまだまだである。は己の未熟さに内心苦笑した。
「いいのよ、教え子を心配するのも仕事のひとつですもの。でも、そう……そうなると、こうしてさんが学園を訪ねてくる機会も無くなるんでしょうね」
視線を落としどこか寂しげな様子で言う恩師を見て、は穏やかに微笑んだ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
ふと思い浮かんだ一文をそらんじてみれば、恩師ははっとしたようにを見、それからゆるゆると苦笑いを浮かべ、その続きを紡いだ。
「……世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。……『方丈記』ね。嫌だわ、年をとると感傷的になっちゃって。この年になってくると、教え子から学び直すことも増えてくるわね」
恩師はと視線を合わせて、恥ずかしそうに笑った。
流れて行く川の流れは絶えることなく、それでいてその水は刻々に移って元と同じ水ではない。川のよどんだ所に浮かぶ水の泡は、一方では消えたかと思うと他方にできて、ひとつの泡がいつまでも同じ状態を保つという例はない。世の中に生きている人とその人の住居との関係は、ちょうどこの川のながれや水の泡のようなものである。
鴨長明の『方丈記』は、が目の前にいる師から比較的幼い頃学んだものだ。
あの頃はまだ、授業以外で世の無常について考えることもなく日々を過ごしていた。師に守られ、友に支えられ、未来に希望を持って過ごしていた日々はなんと幸せだったのだろう。教師に怒られたこともあったし、友人と喧嘩したことだってある。授業や実習もけして楽だったわけではない。それでも、杜若忍術女学園はにとって優しい思い出の残る場所だった。
「さん、私たちは常に貴女の歩む道が輝かしいものになることを願っているわ。……世は無常だというけれど、ここはいつだって貴女の帰る場所のひとつよ。道に迷ったら、分かれ道まで戻ってみるのも悪くない手だと思うの。どうか忘れないでね」
世は無常である。確かにの通りだ。けれど、書物に記されていることが全てではない。人が願う“永遠”なんていうものは、せいぜい“私が生きている間”くらいの意味でしかないのだ。
「はい。ありがとうございます」
自分もまた、師と同じように誰かの帰る場所になれるだろうか。……そうで在れたら良いと思う。胸に生まれたのは新たなる希望。教え子から学び直すことも多い、師はそう言ったけれど、彼女からはまだまだ学ぶべきことがたくさんあるとは思う。
感謝と尊敬と愛情をこめて、は師に深々と頭を下げた。