狭い部屋の畳の上。視界の端には二枚並べられた布団。蝋燭だけが灯る薄暗い部屋の中、正座で向かい合わせに座った端正な顔の男はゆっくりと口を開いた。
「さて。今宵も私はちょいと野暮用を済ませに出ますが」
「けして宿の外に出ないように、ですね。承知しております……」
 耳にタコができるほど聞いた言葉でわたしが台詞をつなぐと、ふん、と小さく鼻を鳴らして男は立ち上がった。赤い模様に縁取られた瞳が不機嫌そうにわたしを見下ろす。なにか言いたげではある気がするが、口を開く様子がないので、わたしもぐっと口を閉ざしその沈黙に耐えた。結局彼はそれ以上なにを言うわけでもなく、顔を背けて部屋の出入り口へ向かう。
「あの、……いってらっしゃい」
 声を掛けると彼は襖の前で一瞬立ち止まったが、振り返ることなく部屋から出て行った。
 青い、蛾のような、紫や黄色の入り混じる派手な着物を見送って暫く。再び部屋に男が戻ってくる様子がないことを確かめて、わたしはようやく緊張から解放された安堵に長い息を吐き出した。あの人といると、どうしても息が詰まる。今のところほぼ無条件で養ってもらっているため、わたしは彼にあまり強く出ることができない。
 のろのろと立ち上がり、狭い部屋に二枚仲良く並べられた布団をなるべく離す。男とわたしの今の関係性から考えれば互いにとって迷惑この上ない配慮だったが、毎度毎度宿に泊まる度のことなのでもはや宿の者に予め言いつけることすらなくなった。できた隙間についたてを立て、蝋燭の明かりを消し、わたしは部屋の入り口から遠い方の布団にその身を滑り込ませる。本来ならば上座となるその位置は男に譲るべきなのだろうが、いつも己が遅くに帰ってくる配慮も一応あるのだろうか、わたしが戸から遠い方に寝るのが彼の定めたルールだった。
 障子越しの月明かりのみがぼんやりと差し込む暗い部屋の中、わたしは穏やかな畳の匂いを胸いっぱいに吸い込んで瞼を閉じる。
 きっと此度も彼は、酒と女物の香の匂いをその身にまとわせ、明け方近くに宿へ帰ってくるのだろう。



水無月の桜





 男の本名は知らない。ただ、彼は己を"薬売り"と名乗った。薬売りとの出会いは、そもそもわたしにとってあり得るはずがないものだった。

 もともとわたしが時代の元号を"平成"という。
 わたしは平成の女子高生で、その日、学校から帰ると家に猫がいなかった。いなかったといっても、その猫は我が家の飼い猫というわけではなく、ときどきふらっと現れてはおやつやら夕飯のサンマやらを強請っていく野良猫である。……いや、野良猫などと呼んだら彼女に怒られるだろう。彼女は"おしろ"という名前で、名前の通りまっしろでふかふかした毛並みを持つ美猫だ。その日は前の日からおしろちゃんと遊ぶ約束をしていたので、家にいないならば恐らく近所の神社にでもいるのだろうと思った。あそこは日当たりが良い。わたしは制服から私服に着替えてから、おやつと緑茶の入った水筒、そして猫用のオモチャを持って家を出た。
 落ち着いた色合いの神社の縁の上で丸くなる真っ白な猫はすぐに見つかった。
「あ、いたいた。おしろちゃん!」
「……ん? あら、さんですか。おかえりなさい。今日は早かったんですね」
 顔を上げてぴくぴくと耳を動かすおしろちゃん。どうやらお昼寝していたらしい。……そうだ、おしろちゃんは話すことができる。実は彼女は尻尾が二本ある"猫又"という妖で、人の姿をとることも可能なのだ。人型の彼女はそれはそれは色っぽい美人さんである。
「うん。中間テストだったの。今日で終わったから、帰りに七辻屋でおまんじゅう買ってきちゃった。おしろちゃんの分もあるよ」
「まあ! あたしの分までありがとうございます」
 わたしがおしろちゃんの横に腰掛けると、おしろちゃんはぴょこんとわたしの膝の上に乗っかった。
「えへへ。撫でてもいい?」
「どうぞ」
 おしろちゃんは答えて、わたしの膝の上で丸くなる。そんな彼女のゆらゆらと揺れる魅惑的な二本のしっぽを眺め、その首筋をふかふかと撫でている時間が、わたしにとってはとても幸福な時間だった。
「ねぇねぇ、さん」
「ん? なあに?」
 両手でおしろちゃんのふかふかしていると、気持ちよさげに目を細めたおしろちゃんが口を開いた。わたしは首を傾げる。
さんには、好いてる殿方とかはいらっしゃらないのですか?」
「殿方ぁ!? えー、いないよ、いない。全然いない」
 殿方、という響きがあまり使い慣れなくて、なんだかトギマギしてしまった。わたしくらいの年代だと知り合う男の人なんてクラスメイトくらいだから、男の子だとか男子だといった呼び方をする。こんなところでおしろちゃんはもう何百年も生きている妖なんだなぁと実感して、なんだか不思議な気持ちになった。
「でも、わたしだって年頃だし、運命的な恋とかしてみたいとは思うよ」
「運命的な恋、ですか。逆に難しそうですねぇ」
 おしろちゃんが「やれやれ」といった風にしっぽをパタンパタン揺らした。
「うーん、やっぱりそうかな」
 ドラマや映画では数多存在している運命的な恋とやらが現実にはそうそう存在しないことくらい、もちろんわたしだって知っている。運命なんか感じなくても、人を好きになれることも。けれど。
「運命の人、会ってみたいなぁ……」
 ぼんやりと呟くと、「まだまだ恋に恋するお年頃ねぇ」とおしろちゃんが笑う。だが、そんなわたしの呟きを真面目に受け止めた者がいたらしい。
「その願い、叶えてやろうか」
 聞き慣れない男の声がした。翁のような、低く、しわがれた声。
「えっ?」
 声のした方向を振り向く間もなく、きゅ、と背後から何者かに首根っこをを掴まれたかと思うと、ぐいんっ、と身体が持ち上がる感覚がした。
「あっ、さん!?」
 わたしの膝から転げ落ちたおしろちゃんの慌てたような声がした。
 わたしは首根っこを掴まれたまま、一回、二回と身体を前後に揺らされ、勢いをつけて、ぽいっ、とどこかに放り投げられる。暗闇、暗闇、そして光。ぐるんぐるんと目が回った、次の瞬間。ガンッ、という音と共に、背中に衝撃が走った。
「いったぁ……!」
 目の前がチカチカする。どうやらどこかに背中を打ったらしいが、何が何だか分からない。未だ視界が回るような感じがして、上も下も右も左もよく分からなかった。何度か瞬きをして、世界が輪郭を持ち始める。青い空と桃色の花が視界に入って、ようやく自分が地面に仰向けに倒れていることに気付いた。……あれ? 桜?
「おや。…………これは、これは」
 人の寄る気配がして、はっと視線を動かす。灰色の髪に紫色のバンダナ、そして目の周りには特徴的な赤い化粧。どこを切り取っても見知らぬ男がわたしを見下ろしていた。男は私の横に膝をつくと、ゆっくりとした調子で口を開いた。
「頭は、打って、いませんか」
「あ……はい。でも、背中を打ったみたいで……」
「どれ」
 肩と腰の下に手を差し入れられて上体を起こされる。痛いと言った部分に負担を掛けない起こし方だった。男は、そのままわたしの上半身をやや前の方に倒すと、片方の手でわたしの身体を支えながら、もう片方の手でそっと背中を撫でた。
「どうです、この辺りは、痛みますか?」
「うーん……そこはそんなに……」
「この辺りは?」
「あっ、やっ、痛っ……」
「…………」
「ちょっ、まっ、痛いですって……!」
 痛い、と言ったにも関わらず、男は無言でその辺りを撫で、むにむにと皮膚を揉んだ。そして言う。
「……骨は、大丈夫そう、ですね。打ち身、でしょう」
「は。はあ……」
 わたしは思わずぽかんと男を見つめた。随分と奇抜な化粧をしているが、どきりとするほど顔立ちの整った男だった。周囲の空気の色さえ塗り替えてしまいそうな、なんとも言い難い色気が漂っている。
「湿布を、用意、しましょう」
「え!? あ、あの、大丈夫です。湿布なら家にもありますし、ここから家まですぐですし」
「……そう、ですか」
 男はあっさりと引き下がった。どこか残念なような気分がしつつも、お気遣いありがとうございます、とわたしは頭を下げる。
「あ、そうだ、おしろちゃん!」
 わたしはじんじんととする背中の痛みをこらえて立ち上がった。一瞬視界がぐらりと揺れたが、転ぶほどではなかった。きょろきょろと辺りを見渡して、首を傾げる。
「……あれ、おしろちゃん、どこ? ていうか、桜? ……なに? どういうこと?」
 そういえば、先程も一瞬思った。今は六月なのに、どうして桜が咲いているんだろう? というか、先程まで桜は咲いていなかったはずだ。……もしかしてここ、わたしがさっきまでいた神社じゃないのでは……? 背中を打ちつける直前に聞いた翁のような声を思い出し、背中を嫌な汗が伝う。……アレ、妖だったんじゃないの? 彼らはいつだって人間の都合などお構いなしだ。
 わたしを助け起こした男の方を見ると、彼の方もいつの間にか立ち上がっており、うろたえているわたしの様子をじっと見ていた。わたしは意を決して口を開いた。
「すみません、ここが何処だか教えていただけませんか?」
「……やはり、頭を、打ったのでは」
 ですよね。やっぱりそういう反応ですよね。男は言葉の後に今いる場所を伝えてくれたけれど、聞き覚えがない。やはり、先程までとは違う場所にわたしはいるようだ。
「頭は大丈夫です。いや、実は打ってたのかな……」
 痛みは感じないけれど、なんだか自信がなくなってきた。むしろ、頭を打ったがゆえにこんな状況になっているのだという方がまだ救いがある気がする。
「あの……申し訳ないのですが、もしこの近くの人里に戻る予定があれば途中までご一緒させていただけないでしょうか?」
 男はほんの一瞬だけ迷惑そうな表情をその美しい顔に浮かべたが、わたしは見なかったことにした。



「は……ここって、江戸村とかじゃないですよね?」
 目の前に広がる光景に唖然と呟く。並ぶのは木造の長屋。行き交う人々は着物をまとい、頭には髷が乗っている。
「ここは、江戸、ですが」
「いえ、あの、そうではなくて……いや、あ、そうですか……江戸……」
 江戸……江戸。本物の江戸かぁ…………。そうだよねぇ、あれから随分歩いたけど、テーマパークのゲートを潜った記憶は無いもんねぇ……。いやあ、随分遠いところに来てしまったなぁ……。場所どころか時代まで超えてしまってるよ……。わたしは意識を明後日の方向に飛ばした。これからどうしよう。目の前の男に全て話して縋ってしまいたい気持ちになるけれど、先程の迷惑そうな表情を思い出せば言葉は出てこない。ため息ばかりが口から零れた。
「あなたは、変わった格好をしていますが、どちらから、いらっしゃったので?」
「……とても遠いところから、ですかね」
 お前が言うか、と思いつつも私は答えた。並び歩いて気付いたが、男は随分と目立つ格好をしている。鮮やかな青地の着物に、紫や黄、緑の模様。色こそ派手だがその模様は目玉のような、蛾を思わせるような模様だった。
 わたしの答えに対して、男は自分から聞いたくせにうんでもなくすんでもなく沈黙する。わたしの答えが話を広げにくいものだったせいもあるかもしれないが、これ以上返答を待つ意味もないだろう。この男を頼ることができない以上、わたしは今日の寝床を探すためにそろそろ動かなくてはならない。
「あの、ここまで連れてきていただき、ありがとうございました。とりあえず、今夜泊まれるところを探したいと思います」
 ぺこり、と頭を下げると、男は「おや」と片眉を上げた。
「そろそろ、陽も沈んできましたが、当てはあるので?」
「う……いえ、特には無いのですが……頑張って、みます」
「へぇ?」
 化粧でそう見えるだけで実のところ笑っていないその口が、僅かに弧を描く。目元はぴくりとも動いていないから、微笑んでいるわけではないのだろう。あまり心地の良い笑い方ではなかった。
「なんのお礼もできませんで、申し訳ありません。本当にありがとうございました」
 もう一度頭を下げて、今度こそ歩き出す。
「……ええ、また」
 小さなその声は確かにわたしの耳に届いたが、その時はその言葉の意味をあまり深く考えなかった。



 この時代のお金を持っていなかったため、宿に泊まることは早々に諦めた。代わりに探したのは、住み込みで働ける奉公先。茶道、華道、琴、算盤。父が教育熱心な人であったので、江戸時代でも通用しそうな一通りの教養がわたしにはあった。義務教育のある時代に生まれているので、当然読み書きだってできる。だが、世の中はそんなに甘くできていなかった。よくよく考えてみれば分かる話だが、紹介状のない、つまるところどこの誰かも分かるような人間を家の中に招き入れて奉公させてくれる家や店などあるはずがなかったのだ。
 そんなわけで男と別れて数刻後。日の沈み始めた江戸の中、わたしはかの有名な"吉原大門"から少し離れた場所に立っていた。道行く人に路を尋ねつつ――平成時代の服はこの時代の人間にとって当然珍らしく、聞く人聞く人に訝し気な顔をされたが、ものすごいド田舎から出てきてそこではこういった服装が普通なんですと言えば何とか乗り切れた。たまたまロングスカートを履いていたのは不幸中の幸いであったと思う――たどり着いたその場所は、知り合いが誰一人いないこの時代で、わたしが唯一衣食住を手に入れられそうな場所だった。あの門の向こう側では、今宵も煌びやかな衣装に身を包んだ女性たちが男性に一夜の夢を売るのだろう。自分もその一員になってしまえば、きっと頼ることができる者がいないこの時代でも命は繋げる。だが、門のこれほど近くまで来たというのに、足はそれ以上歩みを進めようとしなかった。見知らぬ男とそういった行為をしなければならないのだという嫌悪感と、未知の世界への恐怖。そうしてまでこの時代で生きる意味などはたしてあるのだろうかという気持ち。それを生業とする彼女たちを貶めるつもりはないが、わたしにそれほどの覚悟があるだろうか。文明の発達した世界で、空腹に膝を抱えることも、隙間風の吹き付ける家で縮こまり凍えることもなく、温和な両親の下満たされて生きてきた自覚のあるこのわたしに、そのような生活が耐えられるのだろうか。……もう少しだけ、働けそうな場所を探してみた方がいいのではないだろうか。もう少し探せば、わたしのように紹介状がないような人間でも雇ってくれる店があるかもしれない。よくよく考えてみれば、わたしはまだ片手で数えられる程度しか奉公先を探してないのだ。諦めるには、きっとまだ早い。
 ここまで来てみようという決断も早かったが、やはりやめようという決断も早かった。とりあえず今夜安全に眠ることができる場所を探さなくては。……そうだ、最初にいたあの神社に戻ってみよう。きちんとお願いすれば、あの社の主も寝るスペースくらい貸してくれるだろう。それに、あの場所ならば、もとの時代に戻る方法の手がかりだって見付かるかもしれない。そう考えると、少しだけ気が楽になった。そんな風に考えながら、元来た道を引き返そうと身を翻しかけた、そのとき。
「身を、売るつもり、ですか」
「ひゃっ!」
 突然、背後から声が掛かった。思わずびくりと肩を揺らし、そのまま反射的に振り向くと、そこには見知った姿があった。
「え、あ、さっきの……」
 最初に神社で出会い、この町まで連れてきてくれた、派手な出で立ちの男だった。
「身を、売るつもり、ですか」
 驚きに目を見開くわたしに、男は低くゆったりとした声で再び問いかける。
「えっと、いえ、その…………」
 わたしは言葉に詰まった。確かに先程まではそういった道も考えていたが、今は別の道を考えている。だが、この男にどう説明したものだろう? 今から先程の神社に戻って野宿するのだとは言い難い。そもそも、たった一度道を案内してもらっただけの相手に話す必要はあるのだろうか。いくら見た目が美しかろうと、この男が善人である保証はどこにもない。
 どう答えるのがベストだろうかと考えて無言になるが、ここで想定外だったのは、わたしの沈黙を男が"肯定"と捉えたことだった。
「身を売る、つもりであったならば、その身、私が買い取っても、いいですよね?」
「え? ……え!?」
 予想だにしていなかった台詞が男の口から飛び出て、わたしは素っ頓狂な声を上げた。は? 買いとる? まさか冗談のつもりだろうかと男の顔をまじまじと見つめてみるが、男の表情はぴくりとも動かなかった。
「見知らぬ、複数の男に抱かれるより、ましだと、思うがねぇ」
「…………」
 表情は変わらないが、どこかわたしを蔑むような、棘のある声色だった。いや、だから身体を売る気はないんだって。己の名誉のために弁解したいけれど、あまりに直接的な言い方に唖然としてしまって返す言葉が見つからない。ただ困惑して男の目を見つめていると、ふと、男の目に一瞬何某かの感情が浮かぶのを見付けた。憎悪のような、哀情のような、……恋情の、ような。複雑すぎて、わたしには読み解くことのできない色だった。ただ、そこに存在しているのがただの肉への欲望だけではないことはなんとなく感じられた。勘違いかもしれないし、気のせいかもしれない。けれどもそれは、目に焼き付いてそのまま脳まで焦がしてしまうような深い感情だった。
「ほら、おいで」
 その感情は何であるのか。瞼の裏側に残ったその表情の意味を考え続けるわたしを止めるかのように、男が言葉を発する。相も変わらず冷たいその声は、しかしどこか耳の裏を擽るように甘い気がした。男と視線が絡む。先程見えた感情はもう浮かんでいなかったが、視線が逸らせない。わたしは魔法に掛けられたかのように、ふらりと一歩彼の方へと踏み出していた。元々対して距離があったわけではなく、わたしと男の距離はあっという間に縮まる。そんな私の手を彼はいとも簡単に取った。けして弱くはない力で掴まれた手首。彼は有無を言わさず、わたしが先程歩いてきた夜道を引き返し始めた。



 身体を売るのは最終手段にしようと決めたばかりだというのに、拒むことができなかった男の手。わたしはどうして今日出会ったばかりの男に手を引かれているのだろう。寂しいから? 心細いから? 一人で生きていけるのか不安だから? どれも正しいようで、どれも違う気がした。
 どれほどの間そうして二人で歩いていたのだろう。痛いほどに強く握られていた手首が離されたのは、一軒の小さな宿に着いてからだった。まさか、今からわたしを抱くつもりなのだろうか。宿の人間と言葉を交わすことなく、男は建物の中を進む。そうしてたどり着いた部屋には、布団が一組だけ敷かれていた。思わずぎくりと肩を強張らせた私に、男は「寝なさい」と言う。
「え、あ、あの、わたし、その……」
 抱かれるつもりなどないと、今更どう勘違いを解けばよいのか分からずしどろもどろになった。男は暫し無言でわたしを眺めていたが、ふと何かに気付いたかのように二、三度瞬きをし、それから興が覚めたように鼻を鳴らし、わたしに背を向けた。
「寝ろ」
「あ、あの……?」
 見えないと知りながらも、向けられた背にわたしは首を傾げてみせた。
「今宵、私には、用事がある。その布団は、使っていい。ただし、宿からは、出なさるな」
「は、はあ……」
 思わず気の抜けた返事をする。足りない言葉と現状から察することができたのは、どうやら今夜この男に抱かれることはなさそうだということ。
 そして、いつ帰ってくるのかも問えず、おやすみなさいも言えないでいるうちに、男は部屋から出て行った。
 一組の布団だけが敷かれた部屋の中でわたしはしばらくの間ぼんやりと立ち尽くしていたが、ふいに力が抜けて布団の上に座り込む。気が張りつめていて気付かなかったが、どうやらとても疲れていたようだ。そのままごろんと後ろに倒れて目を閉じ、もぞもぞと動いて身体を布団の中に滑り込ませる。逃げよう、とは思わなかった。ただ、今夜の寝床が得られたこと、男に身体を要求されずに済んだことに安心していた。
 
 これが"わたし"と薬売りとの出会い。それが廻り巡る運命の中で定められた必然的な出会いだと知るのは、もう少し先のことだった。



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2016.5.3