その老人は私が一週間仕事を頑張った自分へのご褒美スイーツであるシャインマスカットのタルトを頬張っているときに突然目の前に現れた。叫んで騒いでご近所さんが駆け付けてくれたりしたけれど、どうやら老人の姿は私にしか見えないらしい。クスリなんてやってないんだけどな……警察を呼ばれなくて助かった。やましいことはなくとも面倒だ。某黒光りする虫が現れて動揺してしまったと苦しい言い訳をしつつご近所さんたちに謝罪して、扉を閉め、私は老人と向かいあった。中世ヨーロッパの司祭のような格好をしているが、本人曰く魔法使いらしい。……頭大丈夫か? その歳まで童貞貫いたとしても本当に魔法使いになれるわけじゃないんだよ、おじいちゃん。どこかの老人ホームから徘徊してきてしまったのだと思いたいけれど、なにせその姿は私にしか見えていない。……あれ? もしかして頭の心配をしなきゃいけないのは私の方なのか? …… いや、頭の話は置いておこう。老人は自らをダンブルドアと名乗った。



「つまり。本当は十一歳の誕生日に魔法学校とやらへの入学許可証が届くはずだったのに手違いで届かず私がこの歳になるまでその事実にすら気付いてなかったと?」
「然り」
「いや、然り、じゃなくてね。今さらそんなこと言われても困るんですよ。もう大学まで卒業しちゃってるし就職難の中頑張って就職してようやく三年経って人生軌道に乗ったところですよ?」
 笑い飛ばしたかった魔法の存在については、実際そのものを見せられたことによって信じざるを得ない状況だ。タネや仕掛けなしに突然自分の身体が宙に浮いたのは正直ちょっと怖かった。
「しかし、魔力保持者であるからにはコントロールする方法を学ばないといつか取り返しのつかないことになりかねん。もし入学しないというのであればその魔力、封印するしか道はないぞ」
「え? 封印とかもできるの? じゃあ封印でお願いします」
 私は即答した。なぁ〜んだ、そういう抜け道は早めに言ってくれないと。
「えっ」
「ちょっともったいない気もするけど、そもそも魔法なんてない環境で生活してきたから使えなくても特に困らないし。そもそも学費も用意できないし?」
 明らかに動揺の色を見せている老人に私はたたみ掛ける。このまま押し切るつもりでいたが、老人も伊達に歳を重ねているわけではないらしくすぐににっこりと笑った。
「案ずるな、奨学金制度もある」
「うぇぇ……奨学金制度って要は借金でしょ? 大学の奨学金も返し終わってないのにこれ以上は困りますよ……」
 七年分の全寮制私立校の学費とかいくらになるのよ……こわい。奨学金のご利用は計画的に!
「う、ううむ……仕方ない。此度の件はこちらの落ち度だ。学費は免除しよう。教科書や制服類はわしのポケットマネーから出す! これでどうじゃ!?」
 必死か。奨学金借りるのヤダって言った途端学費免除になるこのいい加減さ、結構やばいのでは?
「どうもこうも封印で良いって言ってるんですけど。なんですかそのドヤ顏。ていうか今の会社今どき珍しいレベルでのホワイト企業なんで辞めたくないんですよ」
 結局のところ、それに尽きる。私は今の生活にそれなりに満足しているのだ。わざわざ新たな世界に飛び込んでリスクを冒す必要などない。大体にして仮にこの老人のいう魔法学校を卒業したとして履歴書に書けるわけがないし、そうなったら私は七年間無職ということになる。人間界への社会復帰は絶望的だ。
「うむ。おまえさんがそう言う可能性はもちろん考えておった。だからこそイギリスのホグワーツから迎えに来たわけじゃが」
「は? なに?」
 それとこれとどういう関係が? 一見脈絡のないその台詞に私は怪訝な表情を作って老人を見遣る。老人は無駄に厳かな面持ちで口を開いた。
「イギリスと日本には時差がある。お分かりかな?」
 その言葉に全てを察して私はぎょっとした。お分かりかな、じゃねーよ!
「いや、待って、移動時間とかあるでしょ」
 ふむふむ、と老人は頷く。
「おまえさんの家に暖炉を作らせよう」
「意味が分からない。ていうかうち賃貸アパートだから。暖炉作るとか無理だから」
 何言ってるんだろうこのおじいちゃん。ほんとボケて徘徊してるわけじゃないんだよね? 突然部屋の真ん中に現れたしやっぱり違うよね?
「暖炉があればイギリスまで一瞬なんじゃ。なにせ魔法があるからの」
「は〜〜まじか〜〜魔法って便利〜〜」
「そうじゃろそうじゃろ。家に作れんのなら魔法使いに暖炉を貸してくれる場所を紹介しよう」
 思わず素直に感心してしまった。詳しい仕組みは分からないけど、おそらく暖炉がワープポイントになるとかそんな感じなんだろう。幼少期そこそこファンタジーやゲームは嗜んでいるので想像力はそれなりに豊かなつもりだ。しかし、だからといって簡単に話に乗ると思ったら大間違いである。
「いや、でも魔力封印してもらえばべつに行く必要ないですよね? いくら一瞬で移動できたとしても仕事終わってから学校行くとかハード過ぎて死んじゃう」
 それはそれ。これはこれ。アラサーの域に突入した私には体力的にきつい。
「休息についても魔法でなんとかなるじゃろうて」
「ほんと魔法便利ね……。でも今さら毎日勉強もしたくないし思春期の男女に囲まれて生活するとか無理。絶対無理。想像するだけで息がつまる」
「無論、学校で過ごす間は十一歳の姿に魔法で変えてやろう。魔法省に掛け合って、望めば卒業後も若くなった年齢のまま魔法界で働けるよう許可もとってある」
「人の話聞いてます? 私さっきからお断りしてるんですけど? べつに若返りたい訳でもないし? 魔力のコントロールできないことが危険だっていうなら早いところ魔力封印してもらえませんか?」
「ぐぬぬぬぬ……」
 十歳以降の義務教育なんて戦場だからね。強者に目を付けられぬよう忍び、協調して適度に味方を作る。うっかりどちらかを失敗しようものなら学校生活は地獄だ。それに、先生たちにも可愛がってもらえるよう適度に勉強ができて“良い子”かつ“おバカ”でいなくてはならない。たくさんの理不尽と矛盾で死ぬ。これらのことを全部無給でこなさなきゃいけないなんてもうほんとめんどくさい。無理。
「どんなに説得されても魔法学校なんて通う気ありませんからね。ほら、そろそろ見たいドラマ始まるんでさっさとお願いします」
「後から後悔しても知らんぞ……」
 恨めしそうに老人が言う。どうやらそろそろ勝敗がつきそうだ。
「しつこい。早くしてください」
 一刀両断すると、老人はため息をついた。がっくりと肩を落とし、どこからともなく魔法の杖らしき木の棒を取り出す。
「はあ……仕方ない。では目を瞑っとれ」



始まらなかった物語





2017.9.4