この街に来るのは、何年ぶりだろう。
おぼろげな記憶を頼りにして、は大通りから脇の小道へと入った。
その道をしばらくまっすぐ歩いていると、小さなパン屋が見えてくる。
ああ、ここの食パン、おいしいんだよね。
小さい頃は、毎朝買いに来るのが私の日課だったっけ。
厚切りの食パンをこんがりきつね色に焼けば、外はさっくり、なかはふわふわもっちり。
パンを引き裂けば内部にこもっていた湯気が立ち上り、バターを塗ればその塊は他愛もなく溶け、薄く細長く裂けたパンの端に染み込んでいくのだ。
白く程よい弾力のある生地はほのかに甘く、そこに苺ジャムを一緒に塗って頬張る瞬間を想像するともうたまらない。
ああ、おなかすいてきた。
帰り買っていこう。
そのパン屋を右に曲がって、またまっすぐ歩く。
そして3つ目の角を左に曲がれば、
さん!?」
「あっ!」
その角を曲がったところで、は人に出くわした。
長身な男で、190センチはあるだろうか。
ぴっしりと着込んだスーツは、やけに洒落ている。
この人は、
「……えーと、どちら様?」
自分のことを知っているのだから、当然自分も相手のことを知っているのだろうと思って声をあげたが、どうも見覚えがない。
が首を傾げると、男は目の前でずっこけた。





空と僕らの三角関係





「ええっ!? レオリオくんなの!?」
嘘でしょ!? と悲鳴をあげたに、レオリオは少し困ったような顔をした。
「オレ、そんなに変わったか?」
「変わったなんてレベルじゃないよ! だってあんなに小さくて可愛かったのに……」
このくらい、と小さい頃の身長を手の平で高さを示してみせたに、レオリオは苦笑する。
「おいおい、何年前の話だよ……」
それはずいぶんと大人びた表情だった。
それを見て、はふっと眉を下げる。
ああ、いつの間にか、こんなにも時は流れていたのか。
「……そっか、そうだよね。レオリオくん、いくつになったの?」
自分と3つ違いだとは知っていたけれど、なんとなく尋ねてしまう。
レオリオもそれを知っていたはずだけれど、なんでもないように答えた。
「19だよ」
じゅうきゅう。
本当ならあの子だって、そのくらい大人になっていたのだろう。
幼いままの姿で成長しない記憶は、その実感を伴わせない。
「もう、あれからだいぶ経つんだね」
「ああ」
意図せず沈んだ声を出してしまったに、レオリオも重々しく頷く。
は数年前、弟を病気で亡くしていた。
3つ歳は離れているけれど、仲のよかった弟。
レオリオは、その死んだ弟の1番の友達だった。
「レオリオくん、男前になったね」
湿った空気を払うように、はわざと明るい声で言った。
「なっ……!? ま、まじで!?」
普段言われなれない台詞に、相手が女性と言うこともあってか、レオリオは思わず顔を真っ赤にして問い返す。
「うん、ホントホント」
そんなレオリオの様子が微笑ましくて、はくすくすと笑った。
さんは、よりいっそう可愛くなった」
「えっ! ……あ、あはは、ありがと」
まさか褒め返されると思わなかったははにかんだ。
お世辞だと分かっていても、誰かから褒められるのは嬉しい。
「そうだ、聞いてくれよさん。オレ、ハンター試験に合格したんだぜ」
「えっ、本当に!?」
じゃーん! と言ってハンター証を取り出すレオリオ。
はい、と差し出してくるものだから、はそれを受け取る。
「これがハンター証……」
まじまじと見つめてみても、それはなんの変哲もないカードに見えた。
そうか、彼はハンターになったのか。
「レオリオくんは、これからハンターのお仕事をするの?」
「へっ? いや、まさか!」
「あれ?」
の質問にレオリオが心底驚いたような声をあげて否定するので、も驚いてしまった。
ハンターになる気がないのに、なんでハンター試験受けたの?
「ハンター証があると、国立大の授業料がタダになるんだよ」
が言いたいことが分かったのか、レオリオが言う。
「大学を、受験するの?」
「ああ、だって約束じゃねーか」
約束? とは首を傾げる。
「大学に入ることが?」
「そうじゃなくて、」
そこまで言い掛けて、レオリオは照れ臭そうに頭をがしがしと掻いた。
「あいつが死んだとき、医者になるって、さんに約束した」
照れながらもその瞳は真剣で、どきりとした。
そんな昔のことを、覚えていたのか。
「あれって、約束だったんだ……」
「ええっ!! そう思ってたのオレだけ!?」
独り言のようにぽつりと呟いたの言葉に、レオリオは盛大にショックを受けてみせる。
「いや、自分自身の決意表明だったのかと」
ごめんごめんと苦笑いする
「そりゃねーぜ、さん」
オレは、あんたの笑顔が見たくて頑張ったんだから。
レオリオは情けない声を出した。





数年前。
弟の葬儀が終わった夜。
レオリオとのふたりは、“秘密基地”で星空を見上げていた。
後になって思えば全然“秘密”になんてなっていなかったけれど、そこはレオリオとの弟が3人でいろいろなものを持ち寄って作った、最高の遊び場だった。
ときどきこっそりと家を抜け出して3人で集まっていたその場所に、今はひとり欠けている。
レオリオは泣いていた。
泣いてねーよ汗だよ、なんてアホなことを言いながら、確かに彼は泣いていた。
レオリオがあんまりにもわんわん泣くものだから、隣にいるは逆に泣けなかった。
はレオリオよりも年上だったし、そうじゃなくても女の子は男の子より精神的成長が早い。
レオリオを慰めようと必死なに、泣く余裕はなかった。
「しょうがないよ。お金がないって、そういうことなんだよ」
“しょうがない、うちにはあの子の手術費用を払えるだけのお金がなかったんだ”
何度も何度も両親が言っていた、慰めにすらならない台詞。
彼らは泣いていた。
自分たちの息子の死を、たしかに嘆き悲しんでいた。
もまたレオリオに同じ言葉を言って、顔を伏せる。
一見レオリオに言い聞かせているようなそれは、が自分自身に言いきかせているものだった。
しょうがないと言い聞かせなければ、この悲しみをどこに持っていけばいいのか分からなかったから。
この憤りを、どこにぶつけていいのか分からなかったから。
さん」
「ん?」
涙声で、年下の友人がその名を呼ぶ。
さん、オレ医者になる」
「えっ」
驚くに、レオリオは続けた。
「医者になって、あいつと同じ病気の子どもを治してやるんだ。治して、“金なんかいらねェ”って言ってやるんだ」
「……うん」
はそれだけを返した。
レオリオの言うことは、途方もない話だった。
医者になるにはたくさん知識が必要で、勉強が必要で。
そして、弟を救う以上にお金が必要だった。
だからこそ医者は患者にある程度の金額を要求する権利があるし、それを払えないのなら診てもらえなくても仕方ない。
そのことを、彼は知っているのだろうか。
もしレオリオが心から医者になることを望むのなら、彼の歩む道は茨の道となるだろう。

けれど、願わくば、





「そっか、レオリオくんは夢に向かってまっすぐ突き進んでるんだね」
はい、とハンター証をレオリオに返して、は微笑む。
嬉しかった。
弟は、ただ無駄に死んでいったわけではなかったのだ。
彼の死は、残された人間にたしかな影響を与えて、その意味を成している。
の言葉に、レオリオは静かに頷いた。

さん、オレは医者になるよ。医者になって、あいつと同じような境遇の子を救ってやる」

そう言って穏やかに笑うレオリオ。
一瞬、過去の記憶と重なった。
けれど、あのときとは違い、彼は笑っている。

世の中の不条理に泣いていただけの子どもはもういない。
ここにいるのは、目標に向かってまっすぐ突き進む、ひとりの男だった。





願わくば、彼の夢が叶いますように。






20100103