君に白の旗
雲ひとつない夜空に真ん丸の月が浮かんでいる。高校生の身体を取り戻したわたしではあるけれど、月の綺麗な夜にはなんとなくテラスに出て空を見上げるのが習慣になってしまっていた。“彼”と出会ったのもこんな夜だったっけ。過去を懐かしみ、ふ、と目を細めたそんな時、チラ、と視界に白色が紛れ込んだ。え!? と目を凝らせば、その白色は段々と大きくなる。見間違えるはずがない、あれは……。
「キッド!?」
「こんばんは、お嬢さん」
白い影は危なげなくわたしのいたテラスに降り立つと、右手を胸に当てて恭しく一礼した。
「……もう、会いには来てくれないんだと思ってたのに」
魔法が解けたあの日の夜以来、“キッド”はこの場所を訪れていなかった。それが、今になってどうして。
「今日は満月ですからね」
「!」
……あの約束は、まだ有効なのか。嬉しいやら切ないやらよく分からない気持ちがこみ上げてきて、わたしは俯いて口を引き結んだ。だが、それもほんの数秒。すぐに顔を上げて、挑戦的な笑顔を作った。
「キッドがうかうかしている間にわたしにはステキな彼氏ができちゃったわけだけど?」
「それはそれは……残念です」
まったく残念ではなさそうにキッドが言う。まあ、そりゃあわたしのステキな彼氏とあなたは同一人物なわけですが。
「せめて表情と台詞合わせてほしいんだけど」
「すみません、根が正直なもので」
「ポーカーフェイスはどこにいったの?」
「これは手厳しい。……貴女という女神の前では、この怪盗の仮面も容易に剥がれてしまうんですよ」
そう言って笑うキッド。
「ひぃ、甘い! 甘いっ!」
芝居掛かった台詞だと感じるのに、思わず赤面してしまう。
「たまにはこういうのもいいでしょう?」
「うう〜……」
わたしは呻いた。こんなの、キッドでなければ似合わない台詞だ。本来の姿の彼と付き合うようになった今となっては、なんだかこれもくすぐったい。わたしは両手でぱたぱたと自分の顔を扇ぎながら、なんとか気を取り直し口を開いた。
「あのさ……今日はなんの準備もしてないよ?」
てっきりもうキッドの姿ではわたしの前に現れないつもりなのだと思っていた。だから、お紅茶も、夜中に食べるには身体に悪そうなバターたっぷりのクッキーも今この場には用意してない。
「問題ないですよ。なにより甘いお菓子が目の前ありますからね」
「もういいよ! やめて、やめて! 恥ずかしい!」
ようやく顔色が落ち着いてきたと思った途端ウィンクと共に投げ掛けられた言葉に、わたしは顔を覆った。前はそんなにでもなかったはずなのに、今はどうしてこんなに恥ずかしいんだろう。
「照れる貴女もかわいいですね」
下を向いて顔を覆っている私のつむじに、ちゅっとリップ音が降ってくる。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
も〜〜っ、この男はっ! どうしてくれよう!
顔はまだ赤いままだという自覚はあったが、わたしは思い切り顔を上げてキッとキッドを睨み上げた。
「悪いけど、さっきも言った通り、わたしには恋人がいるの!」
だからそういうのはノーサンキューなの、と手のひらをつき出す。
「顔、赤いですよ」
そう言ってくすくす笑うキッド。
「うるさい! 知ってる!」
キッドのくせに全然紳士じゃないよ〜〜! 見た目と言動がキッドになっただけのただの快斗だよ〜〜!
「ねぇ、さん」
名前を呼びながら、キッドはわたしの右手を持ち上げた。
「……なに」
ポーカーフェイス、ポーカフェイス……。自分に言い聞かせながら、わたしはキッドを見つめる。
「満月の夜だけの秘密の恋人、というのも甘美な響きだと思いませんか?」
右手の甲に口付けを落としながら尋ねてくるキッド。ポーカーフェイス、ポーカフェイス……。
「……。……誘惑してる?」
わたしはまるで警戒してるかのように彼に尋ねた。
「分かりやすく誘惑しているつもりですが?」
言いながら、わたしの右手に自分の左手を絡めてくる。だんだん顔が近づいてきた。
「答えは?」
囁き声で急かされる。もうほとんどふたりの間に距離はなくて、互いの鼻と鼻が触れ合うほどだった。
「……彼氏には内緒にしてくれる?」
答えると、くっ、っとキッドが笑う。
「悪い女性(ヒト)ですね」
「あら、わたしの恋人に予告状を出しておいてくれなかったあなたが悪いのよ」
誰も助けに来ないから、すっかりわたしは怪盗の手に落ちてしまったわ。
芝居がかった風にそう答えると、キッドは一瞬きょとんとした顔を作って、それからにやりと笑った。
「……それじゃあ、我々は共犯ですね」
吐息と共にわたしの唇に落とされたのはとびきり甘い口付けだった。